まにまにまに

新選組説 (三) 近藤勇の最後

甲州勝沼の戦い

明治元年(1868年)2月末、鳥羽伏見の戦いにやぶれ江戸に帰還していた新選組局長・近藤勇は、会計総裁・大久保一翁から甲府の鎮撫を目的とした派兵を命じられる。そして新選組を中核とした甲陽鎮撫隊が組織され、軍資金として5千両、大砲2門、小銃200挺が支給された(「甲州御勤番之者百姓等鎮撫ノ為、大久保一翁殿指図にて大久保剛実は近藤勇のこと御遣之所」草尾精一郎書簡『越前藩幕末維新公用日記』)。

このとき近藤勇は破格の出世で若年寄格となり大久保剛と改名。副長・土方歳三も寄合席格となり、内藤隼人と名をあらためたという(子母澤寛『新選組始末記』)。

3月1日に近藤は江戸を出発するが、よせ集めである甲陽鎮撫隊は練度も士気も低い非常に脆弱な集団だった。そのため、この甲府行きは和平策を進める陸軍総裁・勝海舟が、抗戦をとなえる近藤勇ら新選組を追い出すためにはかった方策だったとも考えられている。

一方、このころ新政府は「徳川慶喜追討」を発令し、江戸を制圧するため東海道・東山道・北陸道の三軍にわけて行軍を開始した。その一つ中山道を進軍していた東山道軍は、諏訪に到着したところで本道を進む本隊と甲州街道を進む分隊にわかれた。この分隊は土佐・鳥取藩兵で構成され、3月4日甲府に進軍して甲府城を開城させた。その中には土佐出身の参謀・板垣退助や軍監・谷干城らの姿もあった。

その事態を知らない近藤ひきいる鎮撫隊は甲府城を目指して甲州街道を進み続け、3月3日に日野宿の佐藤彦五郎宅に立ち寄る。佐藤家は日野の名主をつとめ、彦五郎は土方の姉・のぶの夫で新選組を長年支援してきた。故郷へ錦をかざった近藤・土方は盛大な歓迎を受け、翌4日にふたたび進軍を開始する。

鎮撫隊は3月5日になって笹子峠を越えたが、ここで甲府城がすでに新政府軍に接収されている報告を受ける。近藤は勝沼村の柏尾山に布陣すると、百姓を鎮撫するための軍団で新政府軍に抗戦する意思はないという使者を送った。しかし、戦闘準備の時間かせぎとみた新政府軍は、柏尾山を3方から砲撃する。士気の低い鎮撫隊は脱落者が相次ぎ、近藤は「会津の援軍300が来ている」と鼓舞したが、これが偽情報とわかり総崩れとなった。

近藤勇
近藤勇
土方歳三
土方歳三

大久保大和の出頭

敗走した近藤は五兵衛新田(足立区綾瀬)で兵士を募集し、態勢の立て直しをはかる。しかし、このとき意見の対立から二番隊組長・永倉新八と十番隊組長・原田左之助が離脱、監察・大石鍬次郎が脱走してしまう。残された幹部は、近藤と土方、そして三番隊組長・山口次郎(斎藤一)となった。

4月1日、近藤は下総流山(千葉県流山市)に陣をうつし、部隊の訓練をおこなった。流山本陣には近藤ほか数人がのこるだけとなり、そこへ賊徒潜伏の情報を入手した新政府軍が急きょ進攻した。包囲する新政府軍の軍使に対し、土方歳三は変名・内藤隼人と名のり、江戸からの脱走兵の取り締まりと農民一揆に対する警戒のため駐屯していると主張。応対した東征軍副参謀の薩摩藩士・有馬藤太は、武装解除した上で部隊の解散させ、事情聴取のため責任者が出頭するよう命じた。

このとき近藤はすでに切腹の覚悟を決めており、しばらく出頭の猶予を願い出でて3、4名の隊士と話し合った。土方はこれに反対し、「ここで切腹するのは犬死だ。運を天にまかせて板橋総督府へ出頭し、あくまで鎮撫隊を主張して納得させることが得策である」と説得したという。

「近藤芳助書簡」『新撰組往時実戦壇書』

勇は己に割腹の決心を以て暫時の猶予を乞い、二階に昇り三、四(名)会合す。土方の曰く、此所に割腹するは犬死なり。運を天に任せ板橋総督へ出頭し、飽く迄鎮撫隊を主張し説破するこそ得策ならんと云ふ。

4月3日、近藤は土方の意見に従って武器弾薬を引き渡すと、新政府軍に出頭した。有馬は大久保大和が近藤勇であることは知らず、本営のある越谷まで同行している。ところが、本営には近藤の顔を見知っていた彦根藩士・渡辺九郎左衛門があり、その証言によって正体が露見する。召し捕らえられた近藤は駕籠に乗せられ、翌4日に総督府のある板橋宿へと護送された。

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