まにまにまに

新選組説 (四) 新選組の反論

箱館降伏人

東北戦争にやぶれた旧幕府勢力は北を目指して集結し、蝦夷地(北海道)を平定すると、明治元年(1868年)12月に箱館政権を樹立した。このとき士官以上による入札がおこなわれ、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎、海軍奉行・荒井郁之助、陸軍奉行・大鳥圭介が選出された。龍馬に関係がある人物としては、箱館奉行・永井尚志(若年寄)、陸軍奉行並・土方歳三(新選組副長)、陸海裁判役・今井信郎(京都見廻組)がいる。

榎本は旧幕臣保護と蝦夷地開拓・北方警備を画策していたが、これを認めない新政府は明治2年(1869年)3月に征討軍を派遣した。雪解けをまって戦闘がはじまり、4月9日に新政府軍は乙部に上陸。旧幕府軍を撃退すると17日に松前を制圧し、箱館政権の本拠地である箱館にせまった。

5月11日に箱館総攻撃が開始され、激闘の末に防御陣地の四稜郭が陥落し、市街は新政府軍が制圧した。さらに箱館湾では旧幕府軍の軍艦が全滅し、制海権も失っている。新政府軍艦・甲鉄艦による激しい艦砲射撃がおこなわれ、各地で投降する者が相次いだ結果、18日に箱館政権は降伏し戊辰戦争は終結した。

降伏した旧幕府軍の将兵は寺院に謹慎していたが、幹部である榎本武揚、荒井郁之助、大鳥圭介、相馬主計らは江戸に移送され、6月30日に兵部省軍務局糾問所に投獄された。大鳥圭介は獄中で日記を書いており、これによると11月9日函館から元京都見廻組の今井信郎元新選組の横倉甚五郎が移送されてきた。龍馬殺害の余罪があるためという。そして、翌明治3年(1870年)2月21日、この両名に加えて相馬主計大石鍬次郎が刑部省へ引き渡された。

土佐藩の訴えにより、坂本龍馬暗殺は新選組の犯行して元隊士たちは尋問をうけていたが、兵部省で大石を取り調べたさい「見廻組の今井信郎ら4人が暗殺した」との重大な証言があり、詳しい調査がおこなわれることになった。

岩崎鏡川 「兵部省口書」『坂本龍馬関係文書』 東京大学出版会、大正15年(1926年)

 元一橋家来大石捨二郎倅
兵部省口書
 新選組
 大石鍬次郎事
 新吉
 午三十三歳
口書
(前略)
且同年十月比、土州藩坂本龍馬、石川清之助両人を暗殺之儀、私共の所業には無之、是は見廻り組海野某、高橋某、今井信郎外壱人にて暗殺致候由、勇より慥に承知仕候。先達薩藩加納伊豆太郎に被召捕候節、私共暗殺に及び候段申立候得共、是は全く彼の薩の拷問を逃れ候為めにて、実は前申上候通に御坐候。(下略)


[現代語・意訳]

かつ同年ごろ(慶応3年11月)、土州藩坂本龍馬、石川清之助(中岡慎太郎)両人を暗殺した件は、私どもの仕業ではありません。これは「見廻組の海野某、高橋某、今井信郎ほか1人が暗殺した」と、近藤勇より確かに聞きました。先だって薩州藩の加納伊豆太郎(鷲雄)に召し捕らえられたさい、「私どもが暗殺しました」と申しあげたのは、薩摩の拷問を逃れるためであり、実は今申しあげた通りです。

大石鍬次郎の供述

大石鍬次郎は、近藤勇が江戸で隊士募集をおこなった元治元年(1864年)10月新選組に入隊した。沖田総司の1番隊に配属され、のちに諸士調役兼監察に昇進した。伊東甲子太郎暗殺、油小路の変、天満屋事件、三条制札事件など多くの流血事件に参加したことから「人斬り鍬次郎」と呼ばれた。

甲州勝沼の戦いのち、大石は脱走して東京に潜伏していたところを元隊士・三井丑之助らによって捕縛される。龍馬暗殺の疑いがあるとして厳しい尋問を受け、一度は新選組の関与を自供したものの、後にこれを撤回し京都見廻組の今井信郎らの犯行であると証言した。

岩崎鏡川 「刑部省口書」『坂本龍馬関係文書』 東京大学出版会、大正15年(1926年)

刑部省口書
 一橋家来
大石捨次郎倅
 元新選組
 大石鍬次郎口書
 午三十弐歳
(前略)其節伊豆太郎ヨリ相尋候ニハ、於京師土州藩坂本龍馬殺害ニおよび候も私共之所業ニ可有之、其証ハ場所ニ新撰組原田佐之助差料之刀鞘落シ有之、其上勇捕縛之節及白状之旨申聞候得共、右ハ兼々勇咄ニハ坂本龍馬討取候ものは見廻リ組今井信郎、高橋某等少人数ニ而、剛勇之龍馬刺留候義ハ感賞可致杯折々酒席ニ而組頭之もの等え噺候を脇聞いたし居候得共、右之通就縛候上は即坐ニ刎首可被致ト覚悟いたし候ニ付、右様之申訳ハいたし候も誓言ト被存私所業之趣申答置候処、不図同月中兵部省ヘ御引渡ニ而。(下略)


[現代語・意訳]

以前、伊豆太郎(加納道之助)より尋問されたさいに、京都において土佐藩・坂本龍馬を殺害した件も私ども新選組の仕業であると供述しました。これは証拠として現場に新選組・原田左之助の刀の鞘が残され、その上捕縛された近藤勇が犯行を白状したと聞かされたからです。しかし、この件は勇の話では「坂本龍馬を討ち取った者は京都見廻組の今井信郎、高橋某などで、少人数で剛勇の龍馬を仕留めたことは賞賛に値する」と、組頭らの酒席にて話すのを脇聞きしております。捕縛された上は即座に首をはねられると覚悟していたので先程の話を弁明しましたが、虚言であると迫られ私どもの仕業であると答えたのですが、意外にも同月中に兵部省へ引き渡されました。

大石は兵部省・刑部省の取り調べに対し、「坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺は、私ども新選組の仕業ではない。見廻組の今井信郎ら4人が実行し、この件は確かに近藤勇から聞いている。薩摩の加納道之助からの拷問を逃れるために犯行を自供した」と答えたが、伊東甲子太郎暗殺の罪科のため明治3年(1870年)10月10日に小塚原刑場で斬首されている。

横倉甚五郎の供述

横倉甚五郎は武蔵国多摩郡の出身で、元治元年(1865年)10月の隊士募集に応じて新選組に入隊した。伊東甲子太郎一派のせん滅を謀った油小路の変では、大石鍬次郎とともに奮戦した。明治2年(1869年)に弁天台場で降伏したのち、坂本龍馬及び伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられ、東京に移送され刑部省の取り調べを受けた。

岩崎鏡川 「兵部省口書」『坂本龍馬関係文書』 東京大学出版会、大正15年(1926年)

 箱館降伏人元新選組
兵部省口書
 横倉甚五郎
 午三十七歳
土州藩坂本龍馬討候義は一向不存候得共、同人討候者は先方にては、新撰組の内にて打殺候様申居候間油断致す間敷旨、勇方より隊中へ申通候事承候而巳に御坐候。其余ハ一向存不申候。
 午二月


[現代語・意訳]

土州藩坂本龍馬を討った件は一向に存じておりません。しかし、「同人(龍馬)を討った者を、先方(土佐藩)では新選組の者が打ち殺したと申しているので、油断するべきではない」と、近藤勇から隊中へ通達があったのみでございます。その他については、何も知りません。

横倉は「龍馬暗殺については一切知らない。近藤からは土佐藩の報復に油断するべきではないと通達があったのみである」と自供したが、厳しい尋問を受けて翌3年8月15日に獄死した。斬首だったともいう。

相馬主計の供述

相馬主計の新選組入隊は慶応3年(1867年)10月頃で、翌年の鳥羽伏見の戦いで局長付組頭に抜擢された。近藤勇が板橋で捕縛されたさい、副長・土方歳三とともに助命嘆願に奔走し、幕臣・松波権之丞の封書を届けようとしたところを捕らえられ、近藤処刑後に釈放された。箱館戦争では陸軍奉行添役をつとめ、土方の戦死後は新選組の隊長として新政府軍に降伏した。

岩崎鏡川 「兵部省口書」『坂本龍馬関係文書』 東京大学出版会、大正15年(1926年)

 箱館降伏人
 元新選組相馬肇事相馬主殿
兵部省口書
 午二十八歳
坂本龍馬儀ハ私は一向存知不申候得共、隊中ヘ廻文ヲ以テ右之者暗殺致候嫌疑相晴候趣、全テ見廻組ニテ暗殺致候由之趣、初而承知仕候。


[現代語・意訳]

坂本龍馬の件は私は一向に何も存じておりません。ただし、隊中の回文を読んで、「新選組の嫌疑が晴れ、全て見廻組によって暗殺が実行された」とのことを、はじめて知りました。

横倉同様に龍馬暗殺の嫌疑をかけられた相馬は、「龍馬暗殺の一件については一切存ぜず、新選組の関与がなく、全て見廻組の犯行である」と供述し、兵部省から刑部省へ移された後、10月10日に伊豆諸島新島へ終身流罪の判決を受けた。その3年後に赦免された。

島田魁の証言

彼らのほか龍馬暗殺に関する証言を残している隊士としては、島田魁がいる。島田は文久3年(1863年)5月頃、浪士組の最初の募集に応じ入隊した。池田屋事件では探索方として奔走、討ち入りにも参加して報奨金17両を受けている。鳥羽伏見の戦いから甲州勝沼の戦い、箱館戦争まで転戦し、明治2年(1869年)弁天台場で新政府軍にくだる。釈放後は京都に戻り西本願寺の守衛を勤め、明治33年(1900年)3月20日に73歳で死去した。

明治23年(1890年)、鳥居華村の取材の中を受けたさい、近藤勇が龍馬殺害に関与しているとした『日本の時事』の記事は間違っていると証言している。

鳥居華村 「近藤勇の事」『江戸会誌』 明治23年(1890年)

氏が坂本龍馬を暗殺せしを世は毫もしらず。博文館発行の雑誌日本の時事に坂本の伝あり、川原町において近藤勇ほか二名に切害せらるるの旨を記せり。しかれども、坂本暗殺の事は早くに隊中に聞こえしも、前夜外出等の人々を考えるに、おそらくは氏が殺せしというは訛伝なるべし。


[現代語・意訳]

近藤勇が坂本龍馬を暗殺したというが、私はそのような事は聞いたことがない。博文館発行の雑誌『日本の時事』に坂本の記事があり、「川原町において、近藤勇と他2名によって斬殺される」と記されている。しかし、当時坂本暗殺の件は早くから隊中で話題になっていたが、前夜に外出した人間を思い出してみると、恐らく近藤が坂本を殺したというのは誤伝である。

新選組のまとめ

坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺直後から、新選組は犯人として疑われていた。目付・谷干城の調査によって、土佐藩は龍馬暗殺を新選組の仕業であると断定したが、局長・近藤勇をはじめ隊士たちは一様に否認している。また、黒幕とされた紀州藩が暗殺を命じたり、実行部隊を動かした形跡はなく、そのような証言や証拠は何ものこされていない。

新選組説を裏づける唯一の証拠である原田左之助の鞘も、証言した御陵衛士残党には新選組への強い憎しみがあり、その信ぴょう性には疑問が残る。

ともすれば、新選組説は事件直後に流れた噂をもとに「新選組の犯行」を前提とした証拠が組み立てられていき、そこに各人の思惑が入り込みながら形成されたものといえる。谷は終生新選組説を変えることはなかったが、現在では京都見廻組説が定説となっている。


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