まにまにまに

京都見廻組・今井信郎説 (二) 今井信郎の告白

葉山の御夢

月日は流れ幕末も遠い昔となったころ、維新志士の存在は人びとの記憶から忘れ去られていた。政府に顕彰され、伝記『汗血千里駒』も出版されていたが、坂本龍馬の名も地元で知られている程度のものであった。それがにわかに全国で有名になったのは、死後三十余年たった日露戦争のころである。

日露開戦がはじまる前夜の明治37年(1904年)2月6日、葉山御用邸で静養中だった昭憲皇后は、ふしぎな夢をみた。夢のなかに白衣の武士があらわれ、坂本龍馬と名のると「我が海軍を守護するので、ご安心ください」と奏上したのである。皇后は龍馬の事績については聞きおよんでいたが、その風貌は知らなかったので使いを送り、この出来事を明治天皇に報告された。

この話を耳にしていた遞信大臣・大浦兼武(薩摩藩士)は、公務で関西へ出張したさいに寺田屋の遺址(鳥羽伏見の戦いで建物は消失)をたずねた。このとき寺田屋は、龍馬と縁の深かった女主人お登勢の息子・寺田伊助が継いでいたが、すでに船宿を廃業して大阪に移住していた。伊助はこの訪問を聞き、さっそく家に残っていた龍馬書簡数通を大浦の自宅に届けている。

皇后はこれらの書簡を御覧になり、凶刃にたおれた龍馬を弔祭するための金百円を下賜された。大浦はこれを伊助に授け、寺田屋跡にある「薩藩九烈士遺蹟表」の側に龍馬の顕彰碑が建てられることになった(『明治天皇紀』)。

この話は明治37年(1904年)4月13日付の「時事新報」をはじめとする新聞各紙に掲載され評判となる。ロシア帝国と戦争しているころのことで、国民の士気は大いにもりあがった。そして、翌年5月に東郷平八郎ひきいる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破し、日本海海戦に勝利したことから、龍馬の名は逸話とともに世間一般に知られるようになったのである。

坂本龍馬複写01
昭憲皇太后に献上された坂本龍馬写真

坂本龍馬殺害者(今井信郎氏実歴談)

この話題がもちあがる少し前のこと、静岡県で老農として余生をすごしていた元京都見廻組の今井信郎は、京都時代の旧友・結城無ニ三のもとをたずね旧交をあたためていた。このとき無ニ三の長男・礼一郎が居合わせており、「坂本龍馬を斬った人だ。参考のためよく聞いておくがいい」と紹介される。今井は「いや、つまらん事です」と固辞したが、礼一郎に乞われてとうとう重い口を開き、龍馬殺害の顛末を語った。

当時、甲斐新聞の主筆をしていた礼一郎は、貴重な話をそのまましまっておくのはもったいないと思い、連載記事として掲載した。この記事は、のちに「今井信郎氏実歴談」と題して近畿評論の第17号に無断転載され、大きな論争を巻き起こすことになる。

「坂本龍馬殺害者(今井信郎氏実歴談)」『近畿評論第17号』 明治33年

(今井信郎氏は今尚ほ遠州金谷に住す、本文は氏の談話筆記にして鶴城氏の寄稿に係る)
(一)
 東京諸新聞の徒労、三河御譜代、筑波山事件に加わる、
 長州征伐、義勇兵募集の請願
御維新の時、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬つたのは世間では近藤勇と土方歳三だと思つて居ますし、歴史にもそうあれば其当時の人も大概そうだと思つて居ましたが、実は私です。坂本も私なぞに斬られるより、近藤に斬られた方がよかつたかも知れませんハゝゝゝゝ。
(中略)
(三)
 十一月十五日、先斗町にて時を過す、
 同志合て四人、松代藩士なりと称す
御承知の如く当時は一体に気が立つて居りましてスワと云へば抜く斬ると云ふ始末ですから、御互ひに十分用意して居つて、仲々隙などあるものではありません。私も坂本なんと云ふ奴は幕府のためもならねば、朝廷の御ためにもなるものではない、只事を好んで京都を騒がせる悪漢故、是非斬つて仕舞はねばならぬ、と思ひましたが、さて何れが坂本で何処に居るのか少しも解りませんので、是には余程困りました。併し幸ひにも不図したことから蛸薬師に居る西谷と云ふのが坂本だと云ふことを確めましたから、愈やつて仕舞ふことにきめました。
それで十一月十五日の晩、今夜は是非と云ふので桑名藩の渡辺吉太郎と云ふのと、京都の與力で桂迅之助と云ふのと、外にもう一人、都合四人で出掛けました。私は一番の年上で廿六歳、渡辺は廿四歳、桂は廿一だつたと思ひます。私は其頃は今出川に居りましたが、夕方四人其処へ集つて未だ少し早いから、何時かで時を過さうぢやないかと申して、先斗町へ行つて十時過まで酒を呑んで、それから揃つて出掛けました。渡辺ですか、松村とも云つて居りました。仲々胆のすわつた男で、桂も若いに似合はぬ腕の利いて居たんです。惜しいことに二人とも鳥羽で討死して仕舞ひました。(此時記者は外にモウ一人と云ふその一人は誰れですかと問ひし処、今井氏はそれはまだ生きて居る人です。そしてその人が己の死ぬまでは決して己の名を言ふて呉れるなと呉/″\も頼みましたから今申上げることは出来ませんと答へ、強て請へども遂ひに口を開らかざりき。思ふに、今尚ほ或る一部の人の間に坂本を斬りたる者の中には意外の人ありとの説伝へられ、或ひは其人は今某々の顕官に在りと云ふが如き風評の行はれつゝあるは必竟此の辺の消息を洩らしたるにあらざるなきか。今井氏にして語らず、其人にして語らずんば、維新歴史の此の重要なる事実は遂ひに其幾分を暗黒の裡に葬り去らざるべからず、惜しみても尚余りあること、云ふべし。)
モウ余程寒くなつて居まして、表通りに人の往来もなく、十五夜の月がキラ/\頭上の方に光つて居ましたが、四人とも十分用心して、十時余程過ぎた時分に蛸薬師のその醤油屋へ参りました。そして私共は信州松代藩のこれ/\と云ふものですが、坂本さんに火急お目にかゝりたいと申した処、取次のものが、ハイと云つて立つて行きましたから、こいつは締めた、居るに違ひない。居さへすれば何様でもして斬つて仕舞うと思つて居ますと、其中に取次が此方へと云ひますので跡へついて二階へ参りました。
松代ですか。あの真田の藩です。坂本とは前から通じて居つたのです。四人ともいゝ加減の名を拵へて言つたのですから、今でも覚えて居ません。兎に角此方らへと云ひますから、行つて見ますと二階は八畳と六畳の二間になつて居ました。
(四)
 坂本さん暫く、横鬢を切る、
 京都の風評、脳天を三つ、
六畳の方には書生が三人居て、八畳の方には坂本に中岡が机を中へ挟んで坐つて居りました。中岡当時改名して石川清之助と云つて居りました。けれども私は初めての事であり、どれが坂本だか少しも存じませず、外の三人も勿論知りませんので早速機転をきかして、ヤゝ坂本さん暫くと云ひますと、入口に坐つて居た方の人が、どなたでしたねえと答へたのです。そこでソレと云ひさま、手早く抜いて斬りつけました。最初、横鬢を一つたゝいて置いて、体をすくめる拍子、横に左の腹を斬つて、それから踏み込んで右から又一つ腹を斬りました。此の二太刀で流石の坂本もウンと云つて仆れて仕舞ひましたから、私はモウいきついた事だと思ひましたが、後で聞きますと、明日の朝まで生きて居たさうです。
(図、省略)
それから中岡の方です。これは私共も中岡とは知らず、坂本さへ知らなかつたのですから無理はありません、坂本をやつてから、手早く脳天を三つ程続けて叩きましたら、そのまゝ仆れて仕舞ひました。御話しすれば長いのですが此の間はホントに電光石火で、一瞬間にやつて仕舞つたのです。然し室へ這入ります前に私のすぐ後へ渡辺がついて参りましたが、それが腰の鞘を立てゝ梯子を上りましたので、六畳に居た書生が、怪しいと見てソレッと声を掛けましたから、少し手順が狂つたのです。それでなければ四人とも坂本の室へ這入り込む処でしたが、書生が声をかけたゝめ、渡辺と桂は、早速に抜いて六畳で書生と斬り合ひ其間に私共は八畳の方でやつゝけたのです。書生は渡辺と桂に斬り立てられて、窓から屋根伝ひに逃げて仕舞ひました。
私は其晩前に御話し申しました佐々木只三郎の処へ参つて泊りまして、翌日市中の噂を聞くと仲々大変な騒ぎです。何でも、皆是れは新選組の仕業だらう、多分は紀州の三浦休太郎(安)が新選組と合体してやつたのだらうと云ふ風評です。それに其晩渡辺が六畳へ鞘を置て返つて来ましたが、その鞘が能く紀州の士の差したる鞘に似て居りましたから、愈々是れは三浦の仕業に違ひないと云ふ事でした。暫くたつと果して土佐の若い者が三浦の家を襲ひました。すると其時丁度近藤(勇)が其処に居合せて、一所になつて追ひ帰しましたので愈々斬つたのは三浦と近藤だと云ふ風説が高くなりました。


[現代語・意訳]

(今井信郎氏は現在静岡県に住む。本文は氏の談話筆記にして鶴城氏の寄稿である)
(一)
 東京諸新聞の徒労、三河御譜代、筑波山事件に加わる、
 長州征伐、義勇兵募集の請願
御維新のとき、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬ったのは、世間では近藤勇と土方歳三だと思っていますし、歴史にもそうありますので、その当時の人もほとんどがそうだと思っていましたが、実は私です。坂本も私なぞに斬られるより、近藤に斬られた方がよかったかも知れません。ハハハハハハ。
(中略)
(三)
 11月15日、先斗町にて時間を過ごす、
 同志あわせて4人、松代藩士と名のる
ご承知のように当時は世の気が立っておりまして、スワといえば抜く斬るという事情ですから、お互い十分警戒していて、なかなか隙などあるものではありません。私も坂本という奴は「幕府のためにもならなければ朝廷の御ためにもなるものでもない、ただ事を好んで京都を騒がせる悪漢ゆえ、ぜひ斬ってしまわなければならない」と思いましたが、さて誰が坂本でどこにいるのか少しもわかりませんので、これには非常に困りました。
しかし、幸いなことに、ふとしたことから蛸薬師にいる西谷(才谷梅太郎)というのが、坂本だということを確かめましたから、いよいよやってしまうことに決めました。
それで11月15日の晩、今夜はぜひというので、桑名藩の渡辺吉太郎というのと、京都の与力で桂迅之助(桂早之助)というのと、他にもう1人、合計4人で出かけました。私は一番の年上で26歳、渡辺は24歳(実際は26)、桂は21(実際は28)だったと思います。
私はその頃は今出川におりましたが、夕方4人でそこに集まってまだ少し早いから、どこかで時間を過ごそうじゃないかと申して、先斗町へ行って10時過ぎまで酒をのんで、それからそろって出掛けました。渡辺ですが、松村とも言っておりました。なかなか胆のすわった男で、桂も若さに似合わぬ腕利きでありました。惜しいことに2人とも鳥羽で討ち死にしてしまいました。
(このとき、記者が「他にもう1人というその人は誰ですか」と聞いたところ、今井氏は「それはまだ生きている人です。そして、その人が自分が死ぬまでは、決して自分の名前を口外してくれるな、とくれぐれも頼みましたので、今申し上げることはできません」と答え、しいてお願いしましたが、遂に口を開きませんでした。思いますに、現在ある一部の人たちの間で、坂本を斬った者の中には意外な人物があるとの説が伝えられ、あるいは、その人物は今某の政府高官にあるといった風評があるのは、つまりこの辺りの事情によるものではないだろうか。今井氏にして語らず、その人物が語らなければ、維新歴史のこの重要な事実は、遂にそのいくつかが闇に葬り去られることになり、惜しんでも惜しみきれないものである)
もうかなり寒くなっておりまして、表通りにも人の往来もなく、十五夜の月がキラキラと頭上の方で光っていましたが、4人とも十分用心して、10時を余程過ぎた時間に蛸薬師のその醤油屋(近江屋)へ到着しました。
そして、「私たちは松代藩のこれこれだが、坂本先生に火急お目にかかりたい」と申したところ、取次の者が「ハイ」と言って立って行きましたから、”こいつは締めた、いるに違いない、いさえすれば何とかして斬ってしまおう”と思っていますと、取次が「こちらへ」と案内しますので、後へついて2階へあがりました。
松代ですか。あの真田の藩です。坂本とは前から通じていたのです。4人ともいい加減の名前を言ったので、今でも覚えていません。とにかく、こちらへと言いますから、行ってみますと、2階は8畳と6畳の2間になっていました。
(四)
 坂本さんお久しぶりです、横ほおを斬る、
 京都の風評、脳天を三つ、
6畳の方には書生が3人いて、8畳の方には坂本と中岡が机を中へはさんで座っておりました。中岡は、当時改名していて石川清之助といっておりました。けれども、私は初めての事であり、どちらが坂本だか少しもわかりません。他の3人も勿論知りませんので、さっそく機転をきかして、「ヤヤ、坂本さんお久しぶりです」と挨拶しますと、入り口に座っていた方の人が、「どなたでしたかねえ」と答えたのです。そこで、「ソレ」と手早く抜いて斬りつけました。最初、その横ほおを抜き打ちざま真横に叩いて、体をすくめる拍子に横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた一つ腹を斬りました。この二太刀で、流石の坂本も「ウン」と言って倒れてしまいましたので、私はもう息絶えたと思いましたが、後から聞きますと、明日の朝まで生きていたそうです。
それから、中岡の方です。これは私どもも中岡とは知らず、坂本さえ知らなかったのですから無理はありません。坂本をやってから、手早く脳天を3つほど続けて叩きましたから、そのまま倒れてしまいました。お話すれば長いのですが、これは本当に電光石火で、一瞬にやったことなのです。
しかし、部屋に入る私のすぐ後ろには渡辺がついていましたが、渡辺が腰の鞘を立ててハシゴをあがりましたので、6畳にいた書生があやしいと見て、「ソレッ」と声を掛けましたので、少し手順が狂ったのです。そうでなければ、4人とも坂本の部屋へ入り込む計画でしたが、書生が騒いだため、渡辺と桂は、さっそく刀を抜いて6畳で書生たちと斬り合い、その間に私どもが8畳の方で坂本をやっつけたのです。書生は、渡辺と桂に斬り立てられて、窓から屋根伝いに逃げてしまいました。
私はその晩の前に相談していた佐々木只三郎のところに行って泊まり、翌日市中の噂を聞くと大変な騒ぎになっていました。なんでも「皆これは新選組の仕業であろう。多分、紀州の三浦休太郎が新選組と共謀してやったのだろう」という風評です。
それにその晩渡辺が6畳に置き忘れてきた鞘が、それが紀州藩士の差している鞘に似ていましたから、いよいよ「これは三浦の仕業に違いない」ということでした。しばらく経って、土佐の若い者が、三浦の家を襲撃しました。そのとき、ちょうど近藤勇が居合わせて、一緒になって追い返しましたので、いよいよ「斬ったのは三浦と近藤だ」という風評が高くなりました。

龍馬を斬ったのは、実は私です

「坂本龍馬と中岡慎太郎を斬ったのは、実は私です」からはじまる衝撃の告白は、新聞の読みものとして書かれたため、記者による脚色がかなり入っている。のちに結城礼一郎もそのことを認めており、正体を明かせない容疑者X、芝居がかった殺害の瞬間などが最たるものといえる。

そのため、虚言とみなされ「売名の徒」との批判を受ける一因になるが、今井の告白のなかに裁判では死罪をおそれて話せなかった真相が明かされていると考えられる。今井信郎氏実歴談と兵部省・刑部省口書を検証し、真相を読み解いていく。

まず、龍馬殺害の動機だが、今井は幕府の御差図や黒幕についてはふれずに、「事を好んで京都を騒がせる悪漢ゆえ斬ることを決めた」と、自らの信念で実行した武勇伝として語る。

次に問題となる襲撃者の人数と役割のちがいだが、状況から推測することができる。襲撃者の人数だが、口書では7人としていたものが、実歴談では今井信郎・渡辺吉太郎・桂早之助・某の4人に変更されている。これは事件から三十余年も経過しており、当時の記憶が薄れ、数にちがいがあっても不思議ではない。注目すべきは襲撃者の名である。

今井は、襲撃者として渡辺吉と桂をあげているが、これは口書と実歴談で一致している。それでは、なぜ佐々木只三郎ほか3人の名前があがらなかったのか。今井は自身の強烈な体験をもとに話をしており、ふたりと共に大役を果たしたからこそ数十年経ても名前を覚えていたのである。その大役とは、坂本龍馬殺害の実行である。

残りの某は「名前を思い出せないが、ほかにも仲間がいた」と話したのだろう。これを記者が「名前を明かすことはできないが、生きている仲間がいる。実は政府高官になっているとの噂もある」と、面白く書いた可能性がある。

そして龍馬殺害の瞬間を語るが、口書では「見張りをしていたので状況はわからない」と主張していたものが、「私が斬った」と180度変わっている。今井は真実を打ち明け自ら手を下したと話したのか、それとも腕自慢をしたく嘘をついているのか。

その答えは、今井信郎を売名の徒と断罪した谷干城の講演にあった。龍馬が殺害された状況について、ふたりは次のように述べている。

今井信郎》『坂本龍馬殺害者(今井信郎氏実歴談)
「そこでソレと云ひさま、手早く抜いて斬りつけました。最初、横鬢(横ほお)を一つたゝいて置いて、体をすくめる拍子、横に左の腹を斬つて、それから踏み込んで右から又一つ腹を斬りました」

谷干城》『坂本中岡暗殺事件
「此人の言ふ所に依ると、先づ其横鬢を一つたゝいた。是は何か話にでも聞いたものでないか、此額をやられたのは、五ほんくらいやられた。それから是は稍々似て居るが、横腹を斬つた。又踏込んで両腹を斬つた。それが深い傷と云ふのは横に眉の上をやられて居る、それから後ろから袈裟にやられた。此二つが先づ致命傷」

龍馬が受けた額の傷の位置と真横に斬ったという点が一致しているのだ。谷は「額の傷のことは何か話にでも聞いたものではないか。龍馬は横腹ではなく背中を斬られており、傷の位置がちがう」と否定しているが、これは斬った本人だからこそ数十年経っても覚えていた事実といえる。

一方の中岡慎太郎については「手早く脳天を三つ程続けて叩きましたら、そのまゝ仆れて仕舞ひました」と、あいまいな説明になっている。実際は渡辺吉太郎か桂早之助が斬ったのだと思われる。

最後に今井は、風評によって当時は新選組が有力視されていたことや海援隊士が紀州藩士・三浦休太郎を襲撃した天満屋事件に言及し、「渡辺吉太郎が6畳の部屋に鞘を置き忘れた」と重要な証言している。事実現場には黒塗りの鞘がのこされており、これを証拠品として谷干城は犯人探しをしている(ただし、新選組・原田左之助のものと断定)。

このように『今井信郎氏実歴談』には自らの武勇伝を語る今井の誇張や、読ませるための記者の脚色がいくつかみられるが、総合的に判断して今井信郎の告白は事実であるといえる。

  • 実行
    1. 京都見廻組
      襲撃班: 今井信郎、渡辺吉太郎、桂隼之助、某
  • 黒幕
  • 動機
    1. 京都を騒がせる悪漢
  • 動機
    1. 京都を騒がせる悪漢
  • 目的
    1. 殺害
  • 名札
    1. 松代藩
  • 誰の鞘
    1. 渡辺吉太郎

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