RYOMADNA

龍馬誕生

坂本家の系譜

坂本家先祖書指出控
坂本家先祖書指出控(京都国立博物館所蔵)

天保9年(1838年)に書かれた坂本家の『先祖書差出控』によると、先祖は山城国の浪人・坂本太郎五郎といい、戦国時代に土佐国長岡郡才谷村に移り住み「大濱」を称したとあります。家伝では美濃源氏土岐氏庶家の近江国坂本城主・明智左馬之助秀満の一門で、山崎の合戦に敗れ落ちのびたさいに壷いっぱいの黄金をもって土佐に移り住んだといいます。

明智左馬之助

明智光秀の家臣で娘婿。明智弥平次秀満とも。光秀に従い本能寺で織田信長を討ち果たし、その後安土城の防衛にあたる。山崎合戦の敗報を受け安土城から居城である坂本城に移ったさい、琵琶湖の湖上を愛馬大鹿毛で渡ったという逸話が残されている。

初代・太郎五郎はこの地で1町あまりの土地を耕し、2代・彦三郎、3代・太郎左衛門とつづけて農業を営んでいました。天正16年(1588年)の検地によると、才谷村の石高は15町5反6代3歩、小作人45人がいる中で1町を越える土地を所有するのは3人とあり、太郎五郎は地域の有力な農民だったようです。

坂本家が才谷村から高知城下に移ったのは、江戸前期の寛文6年(1666年)、4代・八兵衛守之のときです。守之は本丁筋3丁目に家を借りて質屋を開業し、屋号は出身の地名にちなんで「才谷屋」と定めました。守之は商才にめぐまれていたようで、延宝5年(1677年)に酒株を買い酒造業をはじめると、さらに元禄7年(1694年)には諸品売買にも手を広げて才谷屋の基礎を着々と固めていきました。

寺石正路『南国遺事』聚景園武内書店、大正15年(1926年)

当時、高知城下の分限者は、中央にて仁尾久太夫と櫃屋道清、是第一けり。下町にては酒屋の根来屋又三郎(桂井素庵の事)、上町にては此坂本の才谷屋八兵衛等皆屈指のものなりき。(因にいふ浅井川崎両家は、文化文政以後の出世にて当時は其名なし)

あとをついだ5代・八郎兵衛正禎は、元禄14年(1701年)、本丁筋3丁目にある間口6間(約10m)、奥行18間(約32m)の大きな屋敷を買い取り、呉服販売・鬢付油製造をはじめるなど事業を拡大させました。実力を認められた正禎は、享保16年(1731年)に本丁筋の町年寄に選ばれ、藩主への目通りも許されるだけの分限となりました。

その後も才谷屋は驚異的な発展をみせ、城下町において豪商の播磨屋、富商の櫃屋と肩をならべるほどの大商人へと成長しました。

上町の年寄役をつとめた6代・八郎兵衛直益の時代に才谷屋は最盛期をむかえます。才谷屋の店構えは間口が8〜9間、奥行きが数十間もあり(1間は約1.8m)、そこに数棟の酒蔵が立ちならび、使用人は十数人も雇うという繁盛ぶりで「浅井金持、川崎地持、上の才谷屋道具持、下の才谷屋娘持」と俗謡にうたわれたほどでした。

寺石正路『南国遺事』聚景園武内書店、大正15年(1926年)

其本丁の店は間口八、九間、奥行数十間の大土造構にて、数棟の酒倉は甍を争ひ、使用する童僕婢女の数さへ十余人に上り、店務繁昌の有様は余所の見る目も羨む程なりきとぞ

郷士坂本家の誕生

明和7年(1770年)3月、土佐藩庁が幡多郡開発のため新規郷士を募集すると、八郎兵衛直益はこれに応じて郷士株を取得しました。そして財産分与のさい、長男・八平直海が分家して郷士坂本家を創立し、次男・八次直清が本家の才谷屋を相続しました。なお、このときに姓を大濱から坂本に変えています。

坂本の姓については明智光秀の明智家と関係があるとも伝わりますが、明智の居城が近江国滋賀郡坂本にあったこと、家紋が同じ桔梗紋であったことから結びつけられた俗説に過ぎません。しかし、明智一門であるという伝承は一族の中では強く信じられていたようです。

その後、坂本家は2代・八蔵直澄、3代・八平直足(養子)、4代・権平直方とつづき、権平の弟が龍馬直柔になります。権平のあとは婿養子の坂本清次郎が離籍したため、妹千鶴の次男・高松習吉(のち坂本直寛)を養子としてむかえました。

龍馬の家督は妻お龍との間に子がなかったので、姉千鶴の長男・高松太郎が明治4年(1871年)に永世15人扶持をたまわり、名を坂本直とあらため相続しました。

一方、本家の才谷屋は幕末のころになると家運が傾きはじめます。嘉永2年(1849年)に八太郎直与が酒造業を他家にゆずり、もっぱら質屋と藩士の家禄米を抵当に金銭を貸し出す仕送屋を営んでいました。

ところが、明治維新をむかえ士族の秩禄が廃止されると、貸し付けた金の大半が貸し倒れとなりました。深く封建制と結びついていたことが災いし、才谷屋は大打撃を受けたのです。その後はふたたび隆盛することなく衰退の一途をたどり、明治15年(1882年)に破産しました。

土佐の郷士制度

土佐藩独特の郷士制度は、関ヶ原の合戦に敗れた長宗我部盛親が土佐国を没収され、かわって遠州掛川の山内一豊が新たな国主として土佐へ来たときに生まれたものです。

一豊は譜代の家臣と新たに召抱えた諸国の浪人を引きつれ土佐に入国し、長宗我部遺臣たちを農民に落として支配しました。生活の道をたたれた彼らは長宗我部家再興を求め、一領具足(普段は田畑を耕作する在郷の武士)と呼ばれた下級武士が中心となり浦戸城に立てこもる一揆をおこしました。

これに対し一豊は徹底した武断措置でのぞみます。浦戸城に籠城した長宗我部重臣・桑名弥次兵衛とはかり、一揆軍を城外に閉め出しこれを撃破、273人を討ち取りました。さらに入国の祝賀行事として山内家主催の相撲大会を開き、見物にきた一揆軍残党73人を捕らえて種崎浜で磔刑に処しました。

その結果、長宗我部遺臣の上層部は国外に出て仕官の道をもとめ、一領具足のほとんどは帰農していきました。一領具足の中にも積極的に協力したものや、技能を有するものは仕官を許されましたが一部に過ぎず、不穏な空気の渦巻くなかで山内家の統治がはじまりました。

そこで土佐藩は慶長18年(1863年)に布告を発し、長宗我部遺臣から希望するもの郷士として取り立て、香美郡山田村の新田開発にあたらせました。新たに土地を開墾するかわりに武士の身分を与えたのです。これが郷士制度のはじまりであり、彼らは慶長郷士とよばれました。

土佐藩が郷士起用にふみきったのは長宗我部遺臣の生活を助け不満をやわらげる懐柔策と、あわせて新田開発・戦闘員の補充という富国強兵策に役立たせるねらいがあったためでした。しかし、山内家の藩士が上士として上位におかれ階級差別が厳格にしめされていたため、上士と郷士の間には激しい対立関係がみられました。

その後も郷士起用は拡充され、長宗我部遺臣の子孫で郷士となったものは時代とともに増加していきます。しかし、一方で貧困や病気のため領知や身分を維持することができないものがあらわれてきました。結果、郷士株を金銭で他家にゆずることがおこなわれ、郷士株をゆずり地位を失ったものを地下浪人といい、金銭で買い取り郷士となったものを譲受郷士といいます。

郷士株の他ゆずり条件の緩和は、商品経済の浸透による豪農・豪商の台頭と、下級武士の困窮によっていっそう広がりをみせました。そして江戸中期の宝暦13年(1763年)には、未開地が多い土佐西部の幡多郡を開墾するため、身分にかかわらず新規郷士の募集がおこなわれました。

これまでは百姓や町人が郷士となるためには他家からのゆずり受けしかなかったものが、一定の基準をみたすことで武士の身分を手に入れることができるようになりました。ここにはじめて町人郷士が出現し、これ以降郷士の数は増加していきます。龍馬の坂本家も明和7年(1770年)にこの幡多郷士に取りたてられ、町人郷士となっています。

1 2


 TOP