RYOMADNA

名伯楽

土佐の彗星

文久2年(1862年)3月に土佐を脱藩した坂本龍馬は江戸の桶町千葉道場に身を寄せました。武市瑞山ひきいる土佐勤王党とは距離を置きながらも連絡をとり合っており、9月頃に間崎哲馬・門田為之助・上田楠次と会飲し、11月には武市とともに久坂玄瑞・高杉晋作と会談したことが記録にあります。

間崎滄浪述記「滄浪遺稿」『坂本龍馬関係文書 一』日本史籍協会、大正15年(1926年)

壬戌秋日、与門田為之助、坂本龍馬、上田楠次会飲。時新令始下。

久坂玄瑞『筆廼末仁満爾』

暢夫(高杉晋作)同行、勅使館に往、武市を訪、龍馬と万年屋一酌。品川に帰る。

こうした龍馬の動きを『維新土佐勤王史』は次のように評しています。「坂本龍馬は土佐勤王党の太陽系における一個の彗星たり。故に必ずしも瑞山を中心とする軌道を回転するものにあらずして時には遠ざかり、時には近づく。又この彗星に吸引される一、二の遊星をも有せり」と。

このころ江戸入りした薩摩の島津久光が主導する幕政改革(文久の改革)が実現し、人事や職制・諸制度があらためられました。そして、一橋家の一橋慶喜が将軍後見職、越前の松平春嶽が政事総裁職、会津の松平容保が京都守護職に任命されました。

これは公武合体を推し進めるための改革でしたが、いち外様大名の武力と朝廷の権威に幕府が屈したことは幕府の弱体化を印象づけ、尊攘派の討幕機運を助長させる皮肉な結果をもたらしました。

土佐では武市瑞山の朝廷工作によって藩主上京の内旨が下され、8月に藩主・山内豊範が藩兵をひきいて入京。朝廷より京都護衛と国事周旋の勅命を受け、武市の望んだ一藩勤王が達せられました。さらに10月には、幕府に攘夷実行を督促する勅使・三条実美、副使・姉小路公知が江戸に派遣され、その護衛として豊範が選ばれます。このとき武市は柳川左門の変名を名のり姉小路の用人として随行しています。

長州にも動きがあり、朝廷と幕府が協調して開国する長井雅楽の「航海遠略策」は、長井とともに退けられていました。これは久坂玄瑞、桂小五郎ら尊攘派の工作によるもので、長井が提出した建白書には朝廷を誹謗している文言があると激しく攻撃し失脚させたのでした。

そして、勢いにのった尊攘派は「天朝へ忠節、幕府へ信義、祖先へ孝道」という藩是三大綱から、天朝への忠節のためには信義・孝道が欠けることもやむをえないと方針転換させ、長州藩の藩論を破約攘夷へと転換させました。

四賢侯・松平春嶽

黒船来航を目撃し欧米列強の軍事力を目のあたりにした龍馬は自分が進むべき道を模索していました。そこで文久2年(1862年)12月4日、龍馬は同郷の間崎哲馬・近藤長次郎をつれて福井藩邸をたずね、前藩主・松平春嶽(慶永)との面談をもとめました。

春嶽は幕閣有数の開明的な藩主として知られ、中根雪江・橋本左内・三岡八郎(由利公正)などを登用して藩政改革を実現。また熊本から横井小楠を政治顧問として招き、貿易振興と殖産興業による富国強兵を推進しました。将軍継嗣と違勅調印問題で井伊直弼と対立し安政の大獄で隠居謹慎処分を受けますが、この年の4月に幕政への復帰を許され政事総裁職に就任しました。

春嶽は「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しき所に従ふ」と、身分の分けへだてなく諸人の意見を聞き入れて良いものは採用することを政治信条としており、龍馬らの申し出に対し翌晩の拝謁をゆるしています。

ただ一介の土佐藩士と脱藩浪人にすぎない龍馬たちが春嶽のような要人に会うことができたのはだれかの紹介状があったからであり、幕臣・山岡鉄舟と親交のあった間崎哲馬の人脈があったとも、鳥取藩江戸屋敷で剣術指南をしていた千葉重太郎の口利きがあったとも諸説あるがはっきりしていません。

中根雪江「枢密備忘」『大日本維新史料稿本』東京大学史料編纂所所蔵

四日 一土州間崎哲馬、山下龍馬、(空  白)御逢願罷出拝謁相願ふ。明晩を約ス

枢密備忘

中根雪江著。福井藩側用人・中根雪江の執務日記。

松平春嶽
松平春嶽
松平春嶽

越前藩主、政事総裁職。文政11年(1828年)9月2日、御三卿のひとつ田安家第3代・徳川斉匡8男として生まれる。天保9年(1838年)に越前松平家の養子となり家督を継承、「慶永」を名のり11歳で福井藩主となる。財政に苦しむ藩を立て直すため積極的な人材登用をおこない、洋式兵制の導入、藩校・明道館の創設、殖産興業に力を注ぎ成果をあげた。将軍継嗣問題で一橋慶喜を推し、安政の大獄で隠居謹慎処分をうけたが、桜田門外の変後に謹慎を解かれ幕政に復帰し、文久2年(1862年)に政事総裁職に就任した。この年坂本龍馬と面談し、翌年に勝海舟の使者として福井におとずれた龍馬に神戸海軍塾の創設資金を融通している。公武合体を推進して幕府と朝廷の間を調整し、王政復古後の徳川家存続につとめたが、戊辰戦争の勃発によって実現することはできなかった。新政府では、議定、民部卿、大蔵卿を歴任したが、明治3年(1870年)に一切の官職を辞して引退した。

良き理解者

翌12月5日、龍馬・間崎哲馬・近藤長次郎ら3人は松平春嶽に拝謁し、大坂近海の防衛策について意見をのべました。春嶽が「至極もっともなる筋にお聞き受け遊ばされ」と感銘し耳を傾けたのは、それが単純な攘夷論ではなく、欧米列強の軍事力を視野にいれた現実的な意見だったからにちがいないありません。

そして龍馬は軍艦奉行並・勝海舟と春嶽の政治顧問・横井小楠への面会を希望し、春嶽は快く応じて両名への紹介状をあたえました。春嶽は龍馬を気に入ったようで、のちに海軍塾創設のための資金を融通したり、山内容堂に会ったさいに龍馬の脱藩赦免を要請するなど便宜をはかっています。

中根雪江「枢密備忘」『大日本維新史料稿本』東京大学史料編纂所所蔵

五日 一御帰殿之上、昨日相願土州間崎哲馬、坂下龍馬、近藤長次郎へ御逢有之、大坂近海防禦之策を申立候事ニ而、至極尤成筋ニ御聞受被遊

中根雪江『続再夢紀事』日本史籍協会、大正10年(1921年)

同日、帰邸後、土藩真崎哲馬、坂下龍馬、近藤昶次郎来る。公、対面せられしに、大坂近海の防衛策を申立たりき。

続再夢紀事

中根雪江著。松平春嶽の活動・業績を記録した越前福井藩の公式記録。

維新後、春嶽は子爵(のち伯爵)・土方久元にあてた手紙の中でこのときのことを述懐しています。これは春嶽が土方より坂本龍馬・中岡慎太郎両士二十年祭を執りおこなうにあたって案内を受けましたが、脚気症のため医者より出席を止められたので欠席の旨を返答するさい玉串料に添えて送ったもの。

手紙には、龍馬とはじめて面会したのは文久2年(1862年)の7月で同行していたのは岡本健三郎と回想していますが、これは春嶽の記憶違いです。越前福井藩の公式記録からも時期は文久2年(1862年)12月5日、同行者は間崎哲馬・近藤長次郎に間違いありません。

『明治19年12月1日付土方久元宛 松平春嶽書簡』

坂本龍馬氏は土州藩臣にして、国事の為に日夜奔走して頗る尽力せしは衆庶の知る所なり。老生初て面会せしは文久二年七月と存ずる。老生政事総裁職の命を受くるは六月也。或日朝登城の前突然二人の士常盤橋邸に参入して春嶽候に面会を乞ふ。諾して面話す。登城前ゆゑ中根雪江に命じて両士の談話を聞かしむ。此二人は坂本龍馬、岡本健三郎なり。其後此両士を招き両士の談話を聞くに、勤王攘夷を熱望する厚志を吐露す。其他懇篤の忠告を受く。感佩に堪へず。右両士の東下せるは勝安房、横井平四郎の両人暴論をなし、政事に妨害ありとの輿論を信じたるゆゑなりと聞く。坂本、岡本両士、余に言ふ。勝、横井に面晤仕度、候の紹介を請求す。余諾して勝、横井への添書を両士に与へたり。両士此添書を持参して勝の宅へ行く。両士勝に面会し議論を起して勝を斬殺するの目的也と聞く。両士勝の座敷へ通ると勝は大声を発して、我を殺すために来るか殺すならば議論の後になすべしと云ふ。両士は大に驚き落胆せり。両士勝に面会して勝の談話を聞き勝の志を感佩心服し、これよりして廔々勝へ往来すと云ふ。其後勝評判不宜、暗殺の風聞ある頃には、夜々坂本、岡本両士はひそかに勝の宅を夜廻りして警衛せしと。これ坂本氏の懇厚の志を見る一斑なり。横井へも添書を以て面会す。当時横井廃帝論家の評判を受く。両士横井に談話する尊王の志厚く廃帝抔の事は毫もこれなく、横井の忠実に頗る感佩せりと云ふ。慶応三年(月日忘る)坂本氏暗殺の翌朝、後藤象二郎君に面会いたしたく書状を送り候所、答書に坂本氏の暗殺にて用多く来邸を辞すとの事也。初めて此の死亡を聞て驚愕痛悼に堪へず。老生見聞する所を記載して追思往事の証を表す。
 明治十九年十二月十一日
  故山内容堂公親友なる 松平慶永
 土方卿閣下


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