RYOMADNA

井伊の赤鬼

安政の大獄

安政5年(1858年)4月、大老・井伊直弼は、将軍継嗣で対立した一橋派大名、および条約調印を批判をした公卿・諸藩士など、自身の反対派に対する大弾圧を断行しました。いわゆる「安政の大獄」です。

井伊直弼
井伊直弼
井伊直弼

幕末大老、近江彦根藩主。もとは部屋住みだったが、兄・直亮が死去したため彦根藩主となる。安政5年(1858年)に大老に就任すると、継嗣問題では一橋慶喜をおさえて徳川慶福(のち家茂)を第14代将軍とさだめ、勅許を得ないまま日米修好通商条約を調印するなど強権をふるった。これに反対した一橋派大名や尊王攘夷派を一掃するため安政の大獄を断行。安政7年(1860年)3月3日、水戸・薩摩浪士の襲撃を受け桜田門外にて暗殺された。

黒船来航後の幕府内部では、第13代将軍・徳川家定の後継をめぐり、徳川慶福(徳川家茂)を擁立する南紀派と、一橋慶喜(徳川慶喜)を擁立する一橋派の対立がおこります。

南紀派は、彦根藩主の井伊直弼を筆頭に譜代大名や大奥が支持し、血統を重視した幕府独裁の強化をはかろうとしていました。

これに対し一橋派は、慶喜の実父である前水戸藩主の徳川斉昭を中心に親藩・外様大名からなり、英明・年長・人望の3つをそなえた君主のもとで雄藩連合による政権運営をめざしていました。

両派の争いは南紀派が勝利し、将軍・家定は井伊直弼を大老に任じます。大老は、非常時にもうけられた最高職で、幕政を取り仕切る老中より上位におかれていました。

井伊は徳川慶福を将軍の後継者に決定すると、さらに孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結し、開国にふみきりました。

この違勅調印に対して、一橋派の徳川斉昭・慶篤親子(水戸)、徳川慶恕(尾張)、松平慶永(越前)らが一斉に登城、井伊をきびしく責めたてます。しかし、井伊はたくみにこの追及をかわすと、逆にかれらの不時登城をとがめ、隠居・謹慎の処分を下しました。

こうした井伊の独裁強権に激怒した孝明天皇が譲位の意向をしめしたため、朝廷は幕府をいさめる趣旨の勅諚を水戸藩に下賜し、諸藩への廻達を命じました。

この勅諚は、正式な手続きを経ないままの下賜であったため「戊午の密勅」とよばれますが、数日後に同様の勅諚が幕府に下されています。

この前例のない幕府権威をないがしろにする行為に、井伊は一橋派・尊王攘夷派勢力の一掃を決意し、徹底的な弾圧をおこないました。

その結果、伊達宗城(宇和島)、山内豊信(土佐)、堀田正睦(佐倉)らが隠居謹慎。左大臣・近衛忠煕、右大臣・鷹司輔煕が辞官落飾、前関白・鷹司政通、前内大臣・三条実万が隠居落飾に処せられました。

ことに水戸藩への処分がもっとも苛酷で、家老・安島帯刀、京都留守居役・鵜飼吉左衛門父子、奥右筆頭取・茅根伊予之介は死罪。藩主・徳川慶篤は登城停止、前藩主・徳川斉昭は国許永蟄居という処分が下されました。

そのほかに橋本左内(越前藩士)、吉田松陰(長州藩士)、頼三樹三郎(儒学者)らが斬刑となり、連座したものは100余名をこえたといわれます。

桜田門外ノ変

大老の井伊直弼は、反対派を徹底に排除することで幕府権威を強化しようとしましたが、この大弾圧に対する反動も大きいものでした。

安政7年(1860年)3月3日、江戸城桜田門外で水戸・薩摩浪士18名が彦根藩の行列を襲撃し、井伊を殺害したのです。(桜田門外の変)

桜田門外ノ変
桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図

白昼堂々と幕府最高権力者が殺害されたというこの事件は、幕府の権威を大きく失墜させました。また、下級武士たちのなかから幕府に対する“恐れ”を消しさり、これ以降尊王攘夷運動が激化し、「天誅」という名の暗殺の嵐が吹き荒れていきます。

この知らせが土佐に伝わったとき、快挙と喜ぶものがいれば、国法をやぶる暴挙だと非難するものもあり、その是非をめぐって議論がかわされました。

だが龍馬は、「諸君、なにをそんなに興奮することがある。彼らは臣下としてやるべきことをやっただけである。俺もまた他日ことにあたる時は、このような働きをするつもりだ」と語り、郷士仲間はその大志を知ったといいます。

瑞山会編『維新土佐勤王史』富山房、大正1年(1912年)

而して坂本龍馬後れ至るや、其の水戸人と交りあるを以て、事の顛末を質すに、龍馬略ぼ知れる所を語り、惣ち大言して曰く、「諸君何ぞ徒らに憤慨するや、是れ臣下の分を尽せるのみ。我輩他日事に当る亦此の如きを期せん」と。池(内蔵太)、河野(万寿弥)等始て龍馬の大志を抱くを知れりと云う。


 TOP