まにまにまに

海軍創設の盟約

河田小龍

安政元年(1854年)6月、坂本龍馬は1年4ヶ月の江戸遊学を終え、故郷土佐に帰国した。心身ともにたくましく成長した龍馬は、師匠・日根野弁治にも剣術修行の成果を認められ、閏7月に『小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条』をさずけられた。これは小栗流の中伝目録である。

剣術にはげむ一方、この年の11月ころに龍馬は高知城下築屋敷に住む河田小龍をたずね、面談を申し込んでいる。この小龍は狩野派の画家であるが、儒学・洋学にも造詣が深く、そのことから2年前の嘉永5年(1852年)に、アメリカから帰国したジョン万次郎を取り調べ、詳細な口述をとるとともに挿絵入りの『漂巽紀略』を書きあげていた

小龍は、万次郎から直接聞いたアメリカの文化、政治体制、社会制度を知る海外通であることに加えて、藩命をうけ薩摩藩をおとずれ、大砲鋳造の反射炉や造船工場など西洋式設備を視察してくるなど、当時の土佐随一の知識人であった。

君は人を、僕は船を

突然、小龍の寓居をたずねた龍馬は、「今の時勢について君の意見が聞きたい」と切り出した。求めに対して小龍は「私は一介の絵描きに過ぎず、世間の事はわからない」と取り合おうとしなかったが、龍馬もあきらめない。その熱意に動かされ、小龍は「攘夷はとても無理なことである。だが、開港するにしても攘夷の備えは必要である」と、自説を語りはじめた。

そして、現在の諸藩の軍事力では外国勢力に対抗するのは不可能であることを説き、「まず商業を興し、金融を自在にすること。外国船を買い求め、同志を集めて乗組員とし、日本の東西に旅客や荷物を運搬して、その利益を得ながら航海術を練習する。今からでは泥縄式だが、海軍力を充実させることが外国勢力に対抗する道である」と、構想を披露した。

龍馬は手を叩いて喜び、「僕は若い頃から剣術を好んできたが、それは一人の敵にしか役立たない。何か大業を成さなければ、外国に勝つことは難しいと思っていた。君の意見は僕の考えと一致する。これからは互いに尽力しよう」と、固く盟約をむすび別れた。

しばらくして龍馬がふたたび訪れ、「船や器械は金策すれば手にはいるが、これを運用する同志がいないのが困る。僕はこの点に悩んでいるのだが、何か工夫はあるかだろうか」と、小龍にたずねた。

小龍は「従来の俸禄に満足している人は志がない。在野の優秀な人物で志があっても、資力がなくて嘆き憤るものは少なくない。この者を教育すれば、人材を確保することができる」と答えると、龍馬は賛同し「もっともの意見だ。これから君は人材を育成し、僕は船を手に入れることに尽くす」といい、お互いの役割を分担し尽力することになったという。

河田小龍 「藤陰略話」『坂本龍馬関係文書 一』 日本史籍協会、大正15年(1926年)

(前略)ヤガテ又来リ云ヘルニハ、船且器械ハ金策スレバ得ベケレドモ、其用ニ適スベキ同志無レバ仕方ナシ。吾甚ダ此ニ苦シメリ。何カ工夫ノアルベキヤト云ヘルヨリ、小龍云ヘルニハ、従来俸禄ニ飽タル人ハ志ナシ。下等人民秀才ノ人ニシテ志アレドモ、業ニ就ベキ資力ナク手ヲ拱シ慨歎セル者少カラズ。ソレ等ヲ用ヒナバ多少ノ人員モナキニアラザルベシト云ヘバ、坂本モ承諾シ如何ニモ同意セリ。其人ヲ造ルコトハ君之ヲ任シ玉ヘ、吾ハ是ヨリ船ヲ得ヲ専ラニシテ、傍ラ其人モ同ク謀ルベシ。君ニハ人ヲ得ヲ専任トシテ、傍ラ船ヲ得テ謀リ玉ヘ、最早如レ此約セシ上ハ、対面ハ数度ニ及マジ、君ハ内ニ居テ人ヲ造リ、僕ハ外ニ在テ船ヲ得ベシトテ、相別レヌ。(後略)

この会談は、小龍が維新後にしるした回顧録『藤陰略話』に出てくるものだが、のちに龍馬が社中・海援隊で実践する海運と航海術の修得を両輪とする構想がここで語られていたことには疑問が残る。龍馬が海軍をこころざすのは勝海舟に師事してからのことであり、それまで船を手に入れようとした形跡はない。また、龍馬書簡の中に、河田小龍について言及したものはないのである。

しかし、小龍の門人だった近藤長次郎新宮馬之助長岡謙吉らが、のちに龍馬の同志となり社中・海援隊に加わっていることも事実である。確かに小龍は人材を育成し、龍馬のもとに送り込んでいるのだ。このことから、海軍創設の盟約があるかどうかは別にしても、龍馬と小龍に交流があったことは間違いないと考えられる。

河田小龍
河田小龍

【河田小龍】
日本画家。島本蘭渓に絵画、藩儒学者岡本寧浦に儒学を学ぶ。弘化元年(1844年)、土佐藩家老吉田東洋に従って京都に遊学し、狩野永岳に師事する。長崎で蘭学を学んだ後帰国し、自宅に画塾「墨雲洞」を開く。塾生には、亀山社中・海援隊に参加する近藤長次郎、新宮馬之助、長岡謙吉などがいた。嘉永5年(1852年)、アメリカから帰国した漂流民中浜万次郎の取り調べをおこない、『漂巽紀略』にまとめて藩主に献上した。安政元年(1854年)11月ころ、坂本龍馬と会談し、海運と海防の構想を説いて大きな影響を与えたという。

【藤陰略話】
河田小龍の回顧録。明治27年に書かれた近藤長次郎の略歴をまとめたもの。藤陰とは長次郎の号。

砲術稽古

安政2年(1855年)11月6日と7日、龍馬は仁井田浜でをおこなわれた砲術家・徳弘孝蔵の砲術稽古に参加する。徳弘は、江戸で高島秋帆の弟子・下曽根金三郎より高島流砲術を学び、免許皆伝を受け土佐に戻り道場をひらき、西洋式砲術家として広く知られた人物であった。

砲術稽古の記録「濱稽古径倹覽」によると、このとき龍馬は、12斤軽砲を火薬量270目、仰角3度、導火線1寸3歩で撃ち放ち、目標8丁(約870m)に対して7丁(約760m)に着弾させている。

龍馬が徳弘に入門した時期ははっきりしていないが、安政6年(1859年)9月20日に入門していたことが史料から確認できる。だが安政2年(1855年)の時点で砲術稽古に参加していることから、この入門は2度目の江戸遊学(安政3年8月〜安政5年7月)で稽古が中断したための再入門であることがわかる。兄・権平が安政2年9月に入門していることから、龍馬も同時期に入門したと考えられる。

坂本龍馬の血判のおされた起請文
坂本龍馬の血判のおされた起請文(高知県立坂本龍馬記念館所蔵)

▲ 一番上にもどる