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坂龍飛騰

一藩勤王

万延元年(1860年)7月、土佐下士層の指導者である武市瑞山(半平太)は、岡田以蔵ら門弟を引きつれ剣術修行に出かけた。真のねらいは、中国・九州を遊歴して情勢を視察するとともに、各藩の志士たちと交流することにあった。尊王攘夷思想が席巻するなかで、ついに武市が行動をおこしたのだ。

そして西国探索から帰国した武市は、同志・大石弥太郎の求めに応じて江戸にむかった。江戸の尊攘志士と交流のあった大石は、武市を彼らに引きあわせることで、土佐が時勢に乗り遅れまいと考えたのだった。

武市は長州の久坂玄瑞・桂小五郎・高杉晋作、薩摩の樺山三円・岩下方平らと会談をおこない、尊王攘夷運動が進むべき道を話し合った。このとき題目となったのは和宮の将軍家降嫁である。

これは幕府が推し進めた孝明天皇の妹・和宮と将軍・徳川家茂の政略結婚で、条約の調印をめぐって悪化した朝廷との関係修復をはかるとともに、朝廷の権威をかりて反幕勢力の批判をかわし、幕府権力の再編強化をはかる目算があった。

ところが、かえって尊攘派を刺激し「降嫁は表向きであり、内実は和宮を人質とする」ことであると、実力をもって阻止しようという動きが出てきた。彼らは、和宮の輿を東海道の薩埵峠で奪い返して京都へ送り、同時に江戸で蜂起して老中・安藤信正を討ち取ろうと計画したのだ。

久坂らもこの強行策に賛同したが、武市は過激手段に異議をとなえ、幕府に対抗する一大勢力の結集が急務であると主張した。

「幕府のやり方はもちろん憎むべきだが、降嫁はすでに勅許になっている以上は、これを妨げることは正道ではない。今諸君が、ただ血気にはやって行動をおこしても成功はむずかしく、無駄に同志を殺すことにすぎない。それよりも、我われ同志はひとまず国もとに帰り、自藩の意向を勤王に統一し、藩主を奉じて京都へ乗りこんだ上で、老中が奏上した言質にもとづき、正々堂々と幕府へ攘夷の実効をせまろうではないか。これこそが正道であり、天下の人びとを奮起させ、尊攘の目的を達することができるのだ」(瑞山会編『維新土佐勤王史』)

武市の意見は正しく十分納得できるものだったので、あえて異論する者もなく和宮奪回は中止となった。このとき武市の卓見に皆感服し、尊攘志士たちの間で彼の声望は高まったのだった。

結成! 土佐勤王党

土佐の武市、長州の久坂、薩摩の樺山は互いに連携することを誓い、各々の藩論を尊王攘夷にまとめ、藩主を奉じて上洛して朝廷の権威を後ろ盾とした勢力を結成する密約が交わされた。

そこで武市は、薩長諸藩に比べて遅れをとっている土佐に一大勤王運動を巻きおこすことを決意し、文久元年(1861年)8月に江戸在住の同志と「土佐勤王党」を結成した。まずは江戸にいた8名が加盟。盟約文は大石が起草し、党首である武市半平太を筆頭に、大石弥太郎、島村衛吉、間崎哲馬らが血判署名した。

『土佐勤王党盟約書』武市瑞山関係文書第一

盟曰
堂々たる神州戎狄の辱しめをうけ、古より伝はれる大和魂も、今は既に絶えなんと帝は深く歎き玉う。しかれども久しく治れる御代の因循委惰という俗に習いて、独りも此心を振い挙て皇国の禍を攘う人なし。
かしこくも我が老公夙に此事を憂い玉いて、有司の人々に言い争い玉えども、却てその為めに罪を得玉いぬ。斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落入玉いぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと。
況むや皇国の今にも衽を左にせんを他にや見るべき。彼の大和魂を奮い起し、異姓兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に裨補せんとす。
錦旗若し一たび揚らバ、団結して水火をも踏まむと、爰に神明に誓い、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払はんとす。左れば此中に私もて何にかくに争うものあらば、神の怒り罪し給うをもまたで、人々寄つどいて腹かき切らせんと、おのれ/\が名を書きしるしおさめ置ぬ。
 文久元年辛酉八月
  武市半平太小楯
 (以下連署血判)


[現代語・意訳]
盟約
神聖な我国が異国の侵略を受け、古来から伝わる大和魂も今は消えて無くなってしまったのかと天皇は憂慮しておられる。しかしながら、平和な世の遊惰に流され、この心をふるいあげて皇国の禍を払いのけようとする者は一人もいない。
おそれ多くも我が主君(山内容堂)はこの事を心配し、幕府と談判におよんだが、かえってそのために罪(謹慎処分)を得た。立派なお考えをもっておられるのに、なぜ罪に落とすのか。君主が辱めを受けたとき、臣下は死を覚悟して恥をそそぐべきである。
今や皇国の危機は、今日より大なるはない。土佐の有志は大和魂をふるいおこし、一致団結して一点の私心をはさまず、互いに協力して国家の復興に尽くさねばならない。
錦の御旗がかかげられるときは、団結していかなる困難もいとわない事を誓い、天皇の御心を案じ奉り、我が主君の御志しを継ぎ、人民の不幸も取り除きたい。この中に私心をもって争う者があれば、神罰が当たる前に同志の手で切腹させることを誓い、ここに銘々の名を書き留めておく次第である。
 文久元年辛酉八月
  武市半平太小楯
 〈以下連署血判〉

翌月、帰国した武市は同志の糾合につとめ、郷士および庄屋層を中心に192名が加盟した。龍馬は第9番目に署名しており、地元土佐での最初の加盟と思われれる。ただし、上士層では小南五郎右衛門、佐々木三四郎、谷干城らが勤王党に理解を示していたが、実際に加盟したのは宮川助五郎ら数名にとどまった。

さっそく参政の吉田東洋に掛けあい、武市は土佐の藩論を尊王攘夷にすべく進言した。だが、東洋は「当家は関ヶ原以来、幕府に対して恩義の深い家柄である」として幕府の方針を重んじ、「尊王倒幕のごときは、浮浪の剣客書生の輩が、天下に混乱をおこそうとしているにすぎない。もってのほかである」と退けている。

剣術詮議

龍馬は土佐勤王党に参加しながらも剣術修行はつづけており、文久元年(1861年)10月上旬に日根野弁治から『小栗流和兵法三箇條』を授けられた。これは小栗流の皆伝目録で、龍馬は小栗流を極めたのである。

そして、藩庁から讃岐丸亀藩への剣術詮議(武者修行)の許可を得ると、高知城下を出立した。しかし、実は剣術詮議は名目で、武市の密命をうけ、長州の久坂玄瑞と面談することにあった。龍馬の目的を知る同志・樋口真吉は、その日記に「坂本龍馬が大きく飛び立った」(「十一日。坂龍飛騰」『遣倦録』)と記している。

高知を出た龍馬は、国境付近にある柴巻にむかった。そこには坂本家の領地があり、顔なじみの田中良助から金子2両を借りている。(『文久元年10月14日付田中良助宛 龍馬書簡』)

その後は讃岐丸亀の矢野市之進道場に滞在したのち、大坂にむかったとも九州に渡ったとも伝わる。確かなことは、翌文久2年(1862年)1月14日に萩を訪れたことである。

そして、久坂と顔をあわせた龍馬は、武市から託された手紙を届けるとともに会談を申し入れた。久坂玄瑞は高杉晋作とならんで吉田松蔭門下の双璧と称せられた秀才で、長州藩尊攘派の中心的な存在だった。龍馬より5歳若く、龍馬は28歳、久坂は23歳であった。

岩崎英重編「江月斎日乗」『維新日乗纂輯』日本史籍協会、大正14年(1925年)

一四日
 翳、土州阪本龍馬携武市書簡来訪。托松洞、夜前街の逆旅に宿せしむ。
一五日
 晴、龍馬来話、午後文武修行館へ遣す。是日、佐世・中谷・寺島・岡部・松洞など来る。藁束を斬る。是日詩経休、阪本生などの周旋も有之を以てなり。夜与寺島訪薩人、夜半帰家。薩人は田上藤七と申す男にて有之候。
一七日
 晴、訪土人。薩人是日、山根・吉松・大楽などの所へ参る。
廿一日
 晴、土人の寓する修行館を訪。中谷と同行是日、訪薩人。
廿三日
 晴、是日を以土州人去。午後訪薩人。

久坂玄瑞
久坂玄瑞

〔久坂玄瑞〕
長州藩士。長州藩医久坂良迪の次男。安政3年(1856年)6月、吉田松陰の松下村塾に入門する。松陰は久坂の才能を高く評価し、防長第一流の人物と称えている。安政の大獄によって松陰が刑死した後、尊皇攘夷運動に身を投じ、長州藩尊攘派の旗頭となる。文久2年(1862年)、公武合体の長井雅楽の弾劾し、藩論を尊皇攘夷へと転換させた。急進派公卿とともに一時は朝廷の実権を握ったが、八月十八日の政変によって失脚する。元治元年(1864年)、6月におきた池田屋事件を機に京都へ進発したが、幕府軍の前に長州軍は敗れ、久坂は鷹司邸で寺島忠三郎と自刃した。享年25歳。

立てよ草莽!

翌11月15日、龍馬は久坂と会談をおこない、薩長土三藩による連携につき意見をかわした。ここで龍馬は、参政・吉田東洋の反対のために尊王攘夷を藩論とすることが極めて困難である内情を伝えた。

このとき長州藩も同じ状況にあり、直目付・長井雅楽のとなえる「航海遠略策」が採用され、公武一和にもとづく開国を藩論としていたのであった。その内容は「破約攘夷は不可能である。そもそも鎖国は300年前に幕府が定めた制度であり、古の昔より定められた皇国の法ではない。それならば、むしろ積極的に世界と通商して国力を高め、世界を圧倒して皇国の権威を示すべきだ。そのため朝廷は鎖国攘夷を撤回し、開国して国力をつけるよう幕府に命じるべきである。そうすれば国論は一つにまとまり政局は安定する」というもので、朝廷・幕府から支持を受けていた。

これに対し尊攘派である久坂や桂小五郎は、長州藩の士気をくじき、朝廷を軽視して幕府に追従する俗論であると批難した。しかし、現実には藩論を尊王攘夷に変えることは難しく、長州・土佐ともに手詰まり状態にあった。

そこで久坂は局面を打開するには、「もはや諸大名も公家にも期待することはできない。藩の枠にとらわれない在野の志士を糾合し、攘夷の義挙をおこなう以外に策はないと我われ同志は語り合っている。大義ためには我が長州藩も、失礼ながら土佐藩も滅亡しても構わないではないか。両藩が存続しても、天皇の御意志が貫徹しなくては、この神州に生きてく甲斐がない」と檄を飛ばした。

藩の枠をこえて行動する「草莽崛起論」は、龍馬に大きな衝撃をあたえたに違いない。10日間の萩滞在で龍馬と久坂の会談は3度おこなわれ、武市に宛てた久坂の手紙に「いろいろと腹蔵なく相談しましたので、くわしいことは坂本君にお聞きください」とあり、十分な意見交換ができたようだ。

『文久二年正月二十一日付武市瑞山宛 久坂玄瑞書簡』

其後は如何被為在候や。此内は山本、大石君御来訪被下為何風景も無之、御気毒千万奉存候。最早御帰国ならんと御察仕候。此度坂本君御出浮被為在無腹蔵御談合仕候事、委曲御聞取奉願候。竟ニ諸候不足恃公卿不足恃、草莽志士糾合義挙の外には迚も策無之事と、私共同志中申合居候事ニ御座候。乍失敬尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず、両藩共存し候とも恐多も
皇統綿々
万乗の君の
御叡慮相貫不申而は、神州に衣食する甲斐ハ無之歟と友人共申居候事に御座候。就而ハ坂本君ニ御申談仕候事ども篤と御熟考可被下候。尤モ沈密を尊ぶは申迄も無之候。樺山よりも此内書状来る。彼藩も大ニ振申候よし、友人を一両日内遣す積ニ御座候。様子次第、尊藩へも差出可申と存申候。何も坂本様より御承知ならんと、草々。乱筆推読是祈。敬白。
 正月念一
時気御自保申も疎に御座候。已上。
  日下 誠
 武市先生


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