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土佐にアダタヌ奴

時勢切迫

文久2年(1862年)2月29日、坂本龍馬は約4ヶ月の剣術詮議を終え土佐に帰国した。さっそく龍馬は土佐勤王党主・武市瑞山をたずね、久坂玄瑞との会談や視察してきた情勢を報告する。

長州藩は航海遠略策を藩の方針として尊王攘夷をしりぞけており、久坂は藩の枠をこえた草莽の志士を糾合して事をおこそうと動いていた。また薩摩藩は国父・島津久光が藩兵を率いて上京することを公表し、これは武力をもって幕府に改革を迫るものだとの噂が広まり、一気に倒幕の機運が高まっていた。

長州と薩摩の動きにあせりを感じた武市は藩庁に働きかけるが、当時土佐の実権を握っていたのは参政・吉田東洋である。東洋は開明的な政策を実行する改革者であったが、一方では山内家は徳川恩顧の大名であるとして親幕の立場から公武合体路線を進めていた。そのため、武市の説く薩長土連合による尊王攘夷は書生論であると一蹴して、聞き入れることはなかった。

こうした情勢のなか武市に脱藩を進言したのが、土佐勤王党員の吉村寅太郎である。吉村もまた武市の命を受け九州探索をしており、龍馬より少し前に帰国していた。

久坂に会った吉村は草莽崛起に大いに感化され、九州にわたり、福岡藩士・平野国臣ら尊攘激派と会談。彼らは島津久光の率兵上京に合わせた討幕挙兵を計画しており、これに賛同していた。吉村は急ぎ帰国すると、武市に勤王党を率いて挙兵に参加することを強く訴えた。

吉村寅太郎
吉村寅太郎

〔吉村寅太郎〕
天誅組総裁。土佐国高岡郡芳生野村の庄屋の家に生まれ、12歳で父のあとをついで庄屋職となる。武市半平太の教えを受け尊王攘夷に傾倒し、文久元年(1861年)、土佐勤王党に参加したが、福岡藩士・平野国臣らが画策した挙兵計画に参加するため脱藩。しかし、寺田屋事件で捕縛され、土佐に送られ入獄する。赦免後、大和行幸の先鋒となるべく公卿・中山忠光を擁し天誅組を結成して挙兵するが、幕府軍の追討を受け戦死した。辞世の句は「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」

しかし、あくまで一藩勤王を目指す武市は「一藩の君臣を挙げて勤王せしむる、是れ半平太の責なり」と、時勢に酔うことはなかった。やむなく吉村は、宮地宜蔵・沢村惣之丞をともない3月7日に脱藩し、長州へ亡命した。

武市は「吉村は功名に急して制することはできない。彼一人の去って、平野らの挙に加わるのも今の場合仕方がない」と黙認したという。(「吉村功名に熱して勢制すべからず。一人去りて平野の義挙に加はる、亦妨げなからん」『土佐勤王史』)

3月11日、土佐を脱した吉村らは久坂のもとに駆けつけ歓迎をうけた。だが、脱藩してきたのが3人とは言いにくかったのだろうか、「あとから十余人も来る」と答えている。

岩崎英重編「江月斎日乗」『維新日乗纂輯』日本史籍協会、大正14年(1925年)

十一日
晴、早朝、周布・麻田を訪う。竹田庄兵衛、昨夜馬関より帰り候よしにて薩の一条大に愉快の由承候事。時に前田・土屋・佐久間・松島・福原與兵衛など来る。竹内は腹をすえておる様に相見え頼敷存候。麻田、昨日より逼塞御免被仰付候事。午後、弥二・松洞・楢崎一同、鶴台上り談ず。夜四時、土州吉村虎太郎竟に亡命して来る、二人同行、後より十余人も来るへしとの事、愉快千万、彼輩の決心には感入候。九時去て広島屋に宿す。松洞来りて周旋致呉候事。

そこで吉村らは相談し、宮地が九州への情勢探索に向かい、沢村が帰国して同志の決起をうながすことになった。さっそく沢村は土佐へと引き返し、3月22日夜に武市のもとを訪れ、再度挙兵への参加を進言した。しかし、武市は同意せず、逆に沢村の軽挙をいましめ同志との接触を禁じた。

龍馬脱藩

このころ龍馬は脱藩の決意を固め、行動を開始する。

その様子から弟の脱藩を心配した権平は、金をねだられても与えずにいたが、龍馬は親戚の広光左門を頼って10両を借り入れていた。これを知った姉・乙女は、権平に内緒で坂本家秘蔵の名刀「肥前忠広」を餞別として与え、龍馬の旅立ちをはげましてくれた。

こうして龍馬は、3月24日の夜に土佐を脱藩した。手引きをしたのは帰国をしていた沢村惣之丞で、土佐郡朝倉村まで河野万寿弥が見送っている。龍馬が脱藩した理由は、「藩を捨て草莽の志士が決起する久坂玄瑞の草莽崛起に影響を受けた」「参政・吉田東洋を暗殺してまで藩論を統一する武市瑞山の一藩勤王に限界を感じた」ともいわれる。

龍馬の脱藩を知らされた武市は、「龍馬は土佐国にアダタヌ奴なれば、広い所へ追いやれり」(千頭清臣『坂本龍馬』)と語ったという。アダタヌとは、「おさまりきらない、はみ出る」という意味の土佐言葉である。

そして「その心は奥が深く、好機を自ら湧き出させている。脱藩することを誰が知れようか、これは龍の名に恥じないおこないである(「肝胆もとより雄大、奇機自ら湧出し、飛潜誰か織るところある、偏に龍名に恥じず」『武市瑞山関係文書』)と詩い、その門出を祝福した。

脱藩の旅

龍馬脱藩の道は諸説あるが、関雄之助こと沢村惣之丞の談話を、龍馬の長姉・千鶴の夫である高松順蔵が筆記した『覚関雄之助口供之事』によれば次の行程となる。

文久2年(1862年)3月24日未明、高知を出奔した龍馬は、沢村惣之丞とともに難路を歩き続け、25日夜に国境近くの高岡郡檮原村に到着し、那須俊平・信吾方に宿泊した。

そして翌日には、那須父子の道案内で宮野々の番所を突破し、韮ヶ峠を越えて伊予国に出た。ここで信吾は引き返したが俊平は同行し、小屋村から水ヶ峠を経て泉ヶ峠で一泊する。

3月27日、宿間村で俊平と別れると、船便で大洲を経由して長浜町に到着。この日は染物屋を営む豪商・冨屋金兵衛方に宿泊した。翌日、長浜港から船に乗り、2日を要して三田尻港へたどり着いた。伝記などにはこのあと下関にむかい豪商・白石正一郎方を訪問したとあるが、『白石正一郎日記』にそのような記述はない。

しかし、ここにきて龍馬と沢村は、合流するはずの吉村寅太郎たちがすでに京都にむけて出発した後であることを知る。

そこで龍馬は「いまさら吉村のあとを追うのも面白くない」と、沢村には京都の情勢をさぐるよう指示し、自らは九州に向かった。目的地は薩摩藩で、かつて絵師・河田小龍より聞かされた薩摩の近代的な大砲生産や造船技術を、自分の眼で確かめようとしたのである。

しかし、龍馬は薩摩に入ることはできなかった。なぜなら、密貿易をしていた薩摩藩は徹底した入国管理をおこなっており、また尊攘派との交流を厳しく制限していた。こうした状況のなかで脱藩浪人の入国が認められるはずもなく、止むなく引き返している。

その後、龍馬は九州諸国を歴訪しながら上方を目指し、6月11日大坂に到着した。沢村と再会し情勢を聞くと、先発した吉村寅太郎一行は4月23日に伏見の寺田屋で薩摩藩の上意打ちに合い(寺田屋事件)、吉村と宮地は捕えられ土佐に送還されたという。

吉村たち尊攘派が期待した島津久光の率兵上京は、そもそも討幕を目指したものではなかった。久光のねらいは、御所をまもる名目で藩兵を上京させ、朝廷から勅使を出させることで幕政改革をおこなうことにあった。当然、討幕挙兵の動きに烈火のごとく怒り、尊攘急進派を粛清し、その計画を粉砕したのだった。

龍馬は大坂住吉陣営の望月清平に連絡をとると、4月8日に土佐勤王党が吉田東洋を暗殺し、刺客はそのまま脱藩した事件がおきたことを知らされる。龍馬脱藩の日(3月24日)から間もないことから、容疑者として龍馬の名前もあがっており、藩の追及がおよぶ前に退去することをすすめられた。

龍馬は望月の助言に従い京都にのぼるが、そこで大石弥太郎と出会う。このころ金に困っていたようで、刀の柄頭を売り手ぬぐいを巻いていたという話が残されている。

瑞山会編『維新土佐勤王史』冨山房、大正元年(1912年)

急ぎに急ぎて下関の白石正一郎の許に至り見れば、早や吉村は去る二十四日に、海路大阪に向ひしと云ふ、其の夜はゆる/\と一宿して、互に前途の方針を定めけるが、坂本今更に吉村の跡を逐ふも、余りに面白からず、寧ろ九州諸藩目下の事情を探りて、後図を書すべく、又澤村は坂本の勧告により、京師公家の青侍に住み込みて、朝廷の模様を探るべしと、評議茲に一決して枕に就き、翌暁東と西とに手を分ちしは、正に是れ「一声風笛離亭晩、君向瀟湘我向秦」の光景ならずや、抑も此の澤村こそ、後日坂本の片腕と歌はれし、海援隊士関雄之助其の人の前身なりしなれ。(中略)
抑も坂本は昨年四月、長州下関にて、澤村総之丞と東西に手を分つや、当時上国の風雲は已に吉村に先んぜられたり、寧ろ九州諸藩の現状を視察し、更に鹿児島城下に入り込みて、其の武力の根拠地を探らんと思ひ立ち、豊筑肥の山野を跋渉して、其の国境までは往きしも、当時浪士を排斥する藩是として、一も二もなく入関を拒絶せられぬ、蓋し坂本は嘗て画家河田小龍より、薩藩が夙に製鉄所を設け、盛に大砲などを鋳立つるを聞きしを以て、一たび其の実際を目撃せんと企てしものなるべし、夫れより坂本は踵を廻らして、上国に向ひ来り、六月十一日大阪に達しければ、取りあへず京師より澤村宗之丞を呼び迎へて、上国の形勢を聞き、又書面を以て、己の来りし事を住吉陣営在役中の望月清平に報ず、清平は為めに驚き且つ危み、先づ田中作吾を其の旅宿に遣はして、彼の吉村等の押送せられし次第を告げ、御身にも吉田刺客の嫌疑かゝり居れば、何時藩邸より捕吏を向けるやも知れず、急ぎ之を避けよとの警告により、坂本は即時に入京す、折しも江戸よりの帰途滞在中なる大石弥太郎の旅寓を叩く、大石は坂本の刀の柄に布片を捲けるを見て怪み問へば、坂本は打ち笑ひて縁頭を売りて旅費にしたりと答へぬ。

このあと龍馬は江戸をむかう途中の大坂で樋口真吉と会っている。樋口は龍馬の長州行きを「坂龍飛騰」と評した人物で、困窮した龍馬をはげますため1両を贈っている。(「廿三日 逢龍馬贈壱一圓」『遣倦録』)

そして8月頃、龍馬は飄然として江戸に下り、京橋桶町の小千葉道場にわらじを脱いだ。

刀を渡したのは誰?

『汗血千里駒』『維新土佐勤王史』などの龍馬の伝記には、脱藩するさいに刀を与えたのは三姉・乙女となっているが、実は次姉・栄であったという説がある。この説によれば、お栄は家伝の銘刀を与えたことの責任をとって自害して果てたという。

坂崎紫瀾『汗血千里駒』春陽堂、明治18年(1885年)

門出の日にもならば、贈り物せばやとひそかに取り置きしものありと、箪笥の抽斗より取り出す袋入りの一腰を龍馬が前に措けば、龍馬は把って押し戴き、(中略)龍馬は姉が餞別の肥前忠広一刀を腰に帯し、兄の事をばくれぐれと夕告げ鳥の啼く頃に、心強くも宅を出……

弘松宣枝『阪本龍馬』民友社、明治29年(1896年)

彼に姉あり、とめと云う。彼女早くもこれを察して、足下幼少より一徹の性なれば、これを留めんも無益ならん。待て足下に贈るべきものありと。箪笥より肥前忠広の一刀を後にして国を出でしは、文久二壬戌の年四月五日なりき。

瑞山会編『維新土佐勤王史』冨山房、大正元年(1912年)

姉の乙女は早くもその機を察し、龍馬が日頃望める実兄秘蔵の肥前忠広の一刀を取り出し、御身に贐けせんとて与えければ、龍馬はこれを推し戴き、首途よしと勇み立ち、この月二十四日の夜、沢村と共に高知城下を発す。

千頭清臣『坂本龍馬』博文館、大正3年(1914年)

龍馬また藩を脱するの意あり。兄権平、切にその軽挙を戒むるも聴かず。親戚広光左門に旅費十両を借り、姉乙女に父祖伝来の一刀を餞せられ、同志沢村総之丞と共についに高知を去る。実に文久二年三月二十四日の夜なり。

坂本中岡銅像建設会編『雋傑坂本龍馬』坂本中岡銅像建設会、大正15年(1926年)

龍馬の末姉に乙女と云うものがあった。(中略)龍馬、近日の挙動に早くもその挙を察し、幼少より一徹の性格なればこれを留めたところで所詮は無益だとて、龍馬が日頃望める兄秘蔵の肥前忠広の名刀を餞けにとて与えた。

司馬遼太郎『竜馬がゆく』文藝春秋、昭和44年(1969年)

竜馬の脱藩後、藩庁の調べで、柴田家の陸奥守吉行の一刀をお栄からもらいうけたことがわかり、柴田義秀は激怒した。
じきじき坂本家へ来て、お栄を責めた。
「なぜ、そなたはわしの形見を余の者にあたえたか」
そのあと、お栄は自殺している。

これは才谷屋7代目の坂本源三郎の養女・宍戸茂が、『竜馬がゆく』を執筆中の司馬遼太郎に伝えた家伝がもとになっており、小説に掲載されたことから一般的になった。小説では、お栄が離婚した夫・柴田義秀から形見としてもらった「陸奥守吉行」を与えた設定となっている。

なお、脱藩時に龍馬がもっていた刀は「肥前忠広」と伝わる。「陸奥守吉行」は、龍馬が兄・権平にねだって慶応3年(1867年)におくられたもので、龍馬の手紙から間違いない。

この家伝の真偽は不明だったが、昭和43年(1968年)に坂本家の墓所が改修されたさい、地下深くから誰のものとも知れない髪と遺骨が発見された。これは自害したため密葬されたお栄の墓と推定され、乙女の墓のとなりへ新たにお栄の石碑が建てられることになった。この発見により、お栄説がさらに信ぴょう性を増すことになる。

ところが、昭和63年(1988年)に所在不明だったお栄の墓が発見され、弘化2年(1845年)9月13日に亡くなっていたことが確認された。墓碑には「貞操院栄妙墓」と戒名、側面には「柴田作衛門妻 坂本八平女 弘化乙巳二年九月十三日 」と刻まれていた。柴田作衛門の妻、坂本八平の娘であるのはお栄であり、この墓は彼女のものであると断定された。

このことからお栄の没年は弘化2年(1845年)、龍馬が脱藩する17年も前のことで、龍馬が11、2歳のときには亡くなっていたのである。お栄の死と龍馬の脱藩が無関係であったことが明らかになったのである。

吉田東洋暗殺

龍馬が脱藩し九州を遊歴していた頃、国もとの土佐では藩をゆるがす事件がおきていた。参政の吉田東洋が、武市半平太ら土佐勤王党の手によって暗殺されたのである。

東洋は前藩主・山内容堂の厚い信任を受けており、門閥打破と世襲制限、貿易の振興、海防強化のための洋式軍備採用などの藩政改革に取り組んだ。また、改革を実行するために甥の後藤象二郎、福岡藤次、神山左多衛、乾退助、郷士の間崎哲馬、地下浪人だった岩崎弥太郎といった身分にとらわれず能力のある若者を抜擢していた。

だが、東洋の政治手法は佐幕開国に根ざした富国強兵であり、武市の主張する尊王攘夷とは対立するものだった。武市は膝詰め談判で説いたが、東洋は臆することなく「浮浪の剣客書生の輩が、天下に混乱をおこそうとしているにすぎない」と受け入れることはなかった。

そこで武市は改革に反感を抱いていた藩主一門の山内豊栄・山内豊積・山内豊誉、守旧派の柴田備後・平井善之丞らと手をむすんで東洋の排除を画策したが、彼の権力は盤石であった。そして、もはや非常手段以外に方法はないと考え、武市はついに暗殺を決意したのである。

その日は、文久2年(1862年)4月8日。東洋は高知城中で藩主・山内豊範に日本外史「本能寺の変」を講義し、終わると酒宴の席がもうけられた。退出したのは午後10時頃で、おりから雨が降り真っ暗な夜であった。

甥の後藤象二郎が同道していたが追手筋でわかれ、提灯持ちと若党がつき従い、帯屋町にさしかかったところで突然刺客が襲いかかってきた。刺客は那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の3人。

東洋は大石新陰流の心得があり、「狼藉者!」と傘を投げすてると素早く応戦した。数合打ちあったが多勢に無勢であり、背後から袈裟がけに斬られその場に打っ倒れた。那須が首を切り落とし、用意した古いふんどしに包んで運び去った。

かねての打ち合わせどおり、長縄手の観音堂で同志の河野万寿弥らが待機しており、彼らに首級を渡すと3人はそのまま脱藩し長州へ逃亡した。そのため、ほとんど同じ時期に脱藩した龍馬にも容疑がかけられ、一時は藩吏から追及される身となっている。

吉田の首級は雁切河原にさらされ、高札には「この吉田元吉は、重役にありながら財政をかえりみず散財し、領民からは厳しく税を取り立てている。しかも自らは賄賂を受け取り、私腹を肥やしている。そのため我われは天下万民のために天誅を加え、梟首したのである」という斬奸状がはられた。

そこには土佐勤王党への疑惑をそらすため、東洋の専横的な政治手法を批判するのみで、尊王攘夷など政治的なことには何もふれていなかった。

事件の後、吉田家は知行・格式ともに没収され、家名断絶となる。そして、藩政から吉田東洋一派は一掃され、代わって実権は門閥・守旧派がにぎることになった。これにより土佐勤王党が台頭する土壌が生まれ、武市は土佐を尊王攘夷へと導いていくのであった。

吉田東洋
吉田東洋

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