RYOMADNA

土佐にアダタヌ奴

脱藩の旅

龍馬脱藩の道すじは諸説ありますが、関雄之助こと沢村惣之丞の口述を、龍馬の長姉・千鶴の夫である高松順蔵が筆記した『覚関雄之助口供之事』によれば次の行程となります。

文久2年(1862年)3月24日未明、高知を出奔した龍馬は沢村とともに四国山地の難路を歩き続け、25日夜に国境近くの高岡郡檮原村に到着し、同志の那須俊平・信吾方に宿泊しました。

そして翌日、那須父子の道案内で宮野々の番所を突破し、韮ヶ峠を越えて伊予に出ました。ここで信吾は引き返しますが俊平は同行し、小屋村から水ヶ峠を経て泉ヶ峠で一泊します。

3月27日、北表村から宿間村に入り俊平と別れると、船便で大洲を経由して長浜町に到着。この日は染物屋を営む冨屋金兵衛方に宿泊しました。翌日、長浜港から船に乗り2日を要して三田尻港へ到着しました。伝記などにはこのあと下関にむかい豪商・白石正一郎方を訪問したとあるが、『白石正一郎日記』に記述はありません。

ようやく下関に着いた龍馬たちでしたが、ここで合流するはずの吉村寅太郎はすでに京都にむけて出発した後であることを知ります。

『維新土佐勤王史』よると龍馬は「いまさら吉村のあとを追うのも面白くない」といい、沢村には京都の情勢をさぐるよう指示し、自らは九州に向かったと伝わります。目的地は薩摩で、かつて絵師・河田小龍より聞かされた近代的な大砲生産や造船技術を自分の眼で確かめようとしたのでした。

しかし、龍馬は薩摩への入国を拒否されます。なぜなら当時の薩摩藩は明や琉球などと密貿易をしていたため、厳しい出入国制限がおこなわれていたからです。その厳しさは、幕府の送り込んだ密偵がほとんど戻ってこなかったことから「薩摩飛脚」という言葉も生まれたほどでした。

止むなく龍馬は引き返すと九州諸国を視察しながら上方を目指し、6月11日大坂に到着しました。下関で別れた沢村と再会し京の情勢を聞くと、さる4月23日に先発していた吉村寅太郎ら一行は、伏見寺田屋で薩摩藩の上意打ちに合い(寺田屋事件)、吉村と宮地は捕えられ土佐に送還されたといいます。

そもそも吉村たち尊攘派が期待した島津久光の率兵上京は、倒幕を目指したものではありませんでした。久光のねらいは、御所をまもる名目で藩兵を上京させ、朝廷から幕府に政治改革をせまる勅使を出させることで天下に自らの力を示すことにありました。

当然ながら幕府を倒す意志などなく、尊攘派藩士たちの勝手な討幕挙兵の動きに烈火のごとく怒り、寺田屋に集結していた彼らを粛清しその計画を粉砕したのでした。

容疑者・坂本龍馬

文久2年(1862年)6月、大坂に出た龍馬は情報収集のため住吉陣営にいる望月清平に連絡をとります。陣営からは田中作吾が派遣され、上国の形勢とともに国もとでは参政・吉田東洋が4月8日に暗殺され、刺客はそのまま脱藩した事件がおきたことを知らされました。

そして、龍馬が脱藩した日(3月24日)から間もないことから容疑者として龍馬の名前もあがっており、藩の追及がおよぶ前に退去することをすすめられました。

龍馬は望月の助言に従い京都にのぼり、そこで勤王党の同志・大石弥太郎の旅宿をたずねています。このころ金に困っていたようで、刀の柄頭を売り手ぬぐいを巻いていたという話が残されています。

瑞山会編『維新土佐勤王史』冨山房、大正元年(1912年)

急ぎに急ぎて下関の白石正一郎の許に至り見れば、早や吉村は去る二十四日に、海路大阪に向ひしと云ふ、其の夜はゆる/\と一宿して、互に前途の方針を定めけるが、坂本今更に吉村の跡を逐ふも、余りに面白からず、寧ろ九州諸藩目下の事情を探りて、後図を書すべく、又澤村は坂本の勧告により、京師公家の青侍に住み込みて、朝廷の模様を探るべしと、評議茲に一決して枕に就き、翌暁東と西とに手を分ちしは、正に是れ「一声風笛離亭晩、君向瀟湘我向秦」の光景ならずや、抑も此の澤村こそ、後日坂本の片腕と歌はれし、海援隊士関雄之助其の人の前身なりしなれ。(中略)
抑も坂本は昨年四月、長州下関にて、澤村総之丞と東西に手を分つや、当時上国の風雲は已に吉村に先んぜられたり、寧ろ九州諸藩の現状を視察し、更に鹿児島城下に入り込みて、其の武力の根拠地を探らんと思ひ立ち、豊筑肥の山野を跋渉して、其の国境までは往きしも、当時浪士を排斥する藩是として、一も二もなく入関を拒絶せられぬ、蓋し坂本は嘗て画家河田小龍より、薩藩が夙に製鉄所を設け、盛に大砲などを鋳立つるを聞きしを以て、一たび其の実際を目撃せんと企てしものなるべし、夫れより坂本は踵を廻らして、上国に向ひ来り、六月十一日大阪に達しければ、取りあへず京師より澤村宗之丞を呼び迎へて、上国の形勢を聞き、又書面を以て、己の来りし事を住吉陣営在役中の望月清平に報ず、清平は為めに驚き且つ危み、先づ田中作吾を其の旅宿に遣はして、彼の吉村等の押送せられし次第を告げ、御身にも吉田刺客の嫌疑かゝり居れば、何時藩邸より捕吏を向けるやも知れず、急ぎ之を避けよとの警告により、坂本は即時に入京す、折しも江戸よりの帰途滞在中なる大石弥太郎の旅寓を叩く、大石は坂本の刀の柄に布片を捲けるを見て怪み問へば、坂本は打ち笑ひて縁頭を売りて旅費にしたりと答へぬ。

このあと龍馬は江戸を目指しますが、7月13日に在坂中だった樋口真吉と会っています。樋口は龍馬の長州行きを「坂龍飛騰」と評した人物で、困窮した龍馬をはげますため1両をおくりました。(「廿三日 逢龍馬贈壱一圓」『遣倦録』)

そして8月頃に龍馬は飄然として江戸に下り、京橋桶町の小千葉道場にわらじを脱ぎました。

吉田東洋暗殺

龍馬が脱藩し九州を遊歴していた頃、国もとの土佐では藩をゆるがす事件がおきていました。藩の実権をにぎる参政の吉田東洋が、武市瑞山ら土佐勤王党の手によって暗殺されたのです。

吉田は前藩主・山内容堂の厚い信任を受けて、門閥打破と世襲制限、貿易の振興、海防強化のための洋式軍備採用などの藩政改革に取り組んでいました。そして改革を実行するために身分にとらわれず能力のある若者を藩の要職に登用しました。そのなかには、後藤象二郎、福岡藤次、乾退助、間崎哲馬、岩崎弥太郎らがいます。

しかし、吉田の政治手法は佐幕開国に根ざした富国強兵であり、武市が主張する尊王攘夷とは相いれないものでした。武市は膝詰め談判で説きましたが、吉田は臆することなく「浮浪の剣客書生の輩が、天下に混乱をおこそうとしているにすぎない」と耳を貸すことはありませんでした。

そこで武市は改革に反感を抱いていた藩主一門の山内豊栄・豊積・豊誉、守旧派の柴田備後・平井善之丞らと手を結び、吉田の失脚を画策しますが失敗。もはや非常手段以外に方法はないと考え、ついに暗殺を決意しました。

その日は文久2年(1862年)4月8日。吉田は高知城中で藩主の山内豊範に日本外史「本能寺の変」のくだりを講義しました。終わると酒宴の席がもうけられ退出したのは午後10時頃、おりから雨が降り真っ暗な夜でした。

甥の後藤象二郎が同道していましたが追手筋でわかれ、吉田には提灯持ちと若党がつき従い家路につきます。帯屋町にある自宅近くにさしかかったところ、不意に待ち受けた刺客が襲いかかってきました。刺客は那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の3人。

吉田は大石新陰流の心得があり、「狼藉者!」と傘を投げすて素早く応戦します。数合打ちあいますが多勢に無勢であり、背後から袈裟がけに斬り伏せられました。那須が首を切り落とすと、用意した古いふんどしに包んで運び去りました。

かねての打ち合わせどおり、長縄手の観音堂で待つ同志の河野万寿弥らに首級を渡すと、3人はそのまま脱藩し長州へ逃亡しました。そのため、ほとんど同じ時期に脱藩した龍馬にも容疑がかけられ、一時は藩吏から追及される身となっています。

翌日、吉田の首級は雁切河原にさらされ、高札には「この吉田元吉は、重役にありながら財政をかえりみず散財し、領民からは厳しく税を取り立てている。しかも自らは賄賂を受け取り、私腹を肥やしている。そのため我われは天下万民のために天誅を加え、梟首したのである」という斬奸状がはられました。

事件の後、吉田家は知行・格式ともに没収され家名断絶となります。そして、藩政から吉田東洋一派は一掃され、代わって実権は門閥・守旧派がにぎることになりました。これにより土佐勤王党が台頭する土壌が生まれ、武市は土佐藩を尊王攘夷へと導いきます。

吉田東洋
吉田東洋

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